毛利元就の三男隆景が、小早川氏を継いだ後に本拠として築いた城。シンタカヤマではなくニイタカヤマと読む。
小早川氏は、桓武平氏土肥氏の流れで、小早川を名乗った遠平が、源平の争乱の功で安芸国沼田荘に地頭職を得たのが、この本郷を含む周囲一帯と小早川氏の最初の繋がりである。
遠平は、源氏一門の平賀義信の五男景平を養子としていたことから、本貫の土肥郷は嫡子維平に譲り、沼田荘を景平に継がせた。沼田荘を相続した景平は、後に沼田荘を嫡男の茂平と次男季平に分割して継がせ、茂平が建永元年(1206)に隣の高山城を築城し、本拠を移したという。
茂平は、承久3年(1221)の承久の乱の功で竹原荘の地頭職も得たため、沼田荘を嫡出の雅平に、竹原荘を三男あるいは四男の政景に継がせた。この雅平が、建治2年(1276)に新高山城の場所に高山城の対塁を築いたといい、これが新高山城の前身となる。この前身の城は、中世的な色が強く残る鐘ノ段付近だったという。


ちなみに、平を通字とする雅平の系統を嫡流の沼田小早川家といい、政景の系統で景を通字とする庶流を竹原小早川家と呼ぶ。
小早川氏は、安芸への入部以来、安芸南東部の国人として力を持っていたが、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、一貫して尊氏に味方した竹原小早川家が台頭し、北条氏に味方して勢力を衰えさせた本家と並び立つようになる。
そして、戦国時代に入ると、沼田小早川家は当主の早世が相次ぎ、竹原小早川家の弘平が本家の後見も務めるなど、実質的な惣領となったのだが、弘平の子興景が子のないまま、天文10年(1541)の銀山城攻めの陣中で病没してしまったため、興景の室の出身であった毛利氏を頼り、元就の三男隆景が竹原小早川家に入嗣した。これには、自陣営にある安芸国人の弱体化を防ぎたい大内義隆の思惑があったとされる。
一方、本宗家の沼田小早川家も、隆景入嗣と同年に当主であった正平が月山富田城攻めからの退却中に20代の若さで討死し、跡を継いだ子繁平は幼少の上に視力を失ってもいたため、義隆にとっては懸念となっていた。


この義隆の意向や、名を揚げつつあった元就を後ろ楯としたい小早川家臣の思惑もあり、両小早川家中で相談した結果、繁平の妹を隆景に嫁がせることによって、天文19年(1550)に両家が統一されることとなる。
沼田小早川家の本拠高山城に入った隆景は、竹原小早川家が持っていた水軍を活用するため、船の係留と海への展望を考え、天文21年(1552)に高山城の対塁があったこの地へ新たに城を築いた。これが新高山城である。隆景にとっては、人心刷新の意味もあったのだろう。
隆景は、この城を本拠として主に山陽の経略を担当し、兄の吉川元春とともに毛利の両川として本家を支え、対外折衝の役割も担った。だが、永禄10年(1567)に三原城が築城されると、毛利氏の勢力拡大に加え、織田氏や宇喜多氏、本願寺などといった東方の勢力との折衝の必要性が高まり、水運の便がより良い三原城に在城することも多かったようだ。


その後の隆景は、織田軍の中国方面軍司令官だった秀吉と、天正10年(1582)の本能寺の変直後に和睦した後、毛利氏の対外折衝の窓口であったことから懇意となり、秀吉政権下で五大老に任命され、秀吉の縁戚である秀秋を養子にして文禄4年(1595)に隠居し、翌々年に死去した。
一方、新高山城も、隆景が隠居の際に三原城を隠居地と定めたことから、慶長元年(1596)の三原城改修時に巨石などの用材が三原へと運ばれ、城としての役割を終えている。隆景の青年時代から晩年まで、まるで人生に寄り添うように存在した城であった。
城の築かれた山は、沼田川西岸に張り出した岩質の山で、新高山城は、周囲を断崖に囲まれたこの要害の頂上部を中心に郭を60以上も配しており、全山城郭化して屋敷なども取り込んだ近世山城である。
城の構造としては、頂上部南面の小ピークとそれに続く尾根筋を城郭化した中世的な鐘ノ段が中腹にあり、前述のように、築城当初はこの鐘ノ段が城の中心であったようだ。実際、鐘ノ段だけで城郭として完結している面がある。
鐘ノ段の上部には、動線を挟むように番所跡の数段の削平地が構えられ、さらに匡真寺の削平地が設けられていた。これが城の前衛部で、ここからさらに登ると、頂上部付近を盛大に削平した主郭部がある。


この主郭部は、東の突端の最高部を見張台があったと思われる詰ノ丸とし、その西に長方形の本丸を置き、やや下がった北に井戸の残る釣井ノ段、ライゲンガ丸、東ノ丸、中ノ丸の北側が重層的に続き、そのどれもが大きな面積を持っていた。この部分は、山城らしからぬ視界の広さがある。
二ノ丸ともされる中ノ丸は、本丸の北側だけではなく西側にまで回り込んでおり、西端に櫓台と思われる基壇を持ち、その先には石弓ノ段、西ノ丸、西ノ丸の北側に北ノ丸と続く。この辺りの郭は中世的で、面積は大きくない。このほか、西ノ丸の南西側には、峰筋に紫竹丸、シンゾウス郭という郭群が続いている。
特徴的なのは、中ノ丸付近には区切って通路を確保するように土塁が廻らされていることで、城内の動線を誘導する目的があるのだろう。平城には時々見られるものだが、山城でこのような土塁があるのは珍しい。
最初に訪れた時は、沼田川沿いを走っている時に、城の麓に新高山城跡の看板をすぐ見つけたが、その近くに登山道は見当たらず、登ることができなかった。登山道は、看板からかなり南の新幹線をさらに越えた南にあり、登山口には駐車場も整備され、地元の方が丁寧に整備しておられるため、非常に快適に散策できるだろう。


最終訪問日:2023/5/21
22年振りのリベンジで、ようやく登城に成功することができました。
長かったですね。
駐車場では、地元の方が清掃をしておられ、お城の解説や、隣の高山城への行き方を聞くことができました。
そして、なんと500城以上訪れた末に、初めてのお城カードを頂くことに。
お城カードゲットだぜ!