都道府県別-神奈川
箱根と湯河原を結ぶ有料道路で、昭和39年(1964)4月12日に開通し、全長は5.7km。県道である椿ラインのバイパス的な要素が強い道路である。芦ノ湖スカイラインと同様、民間経営であることもあり、夜間は営業していない。 この湯河原パークウェイは、当初は伊豆…
ヤビツ峠の表示 名前の由来は諸説あるのだが、一般には、現在の道の西側にある旧道の改修中に、武田軍と北条軍が戦った時の戦国時代の矢櫃が出土したことから、峠の名前となったという。ただ、漢字で表記をされることはほとんど無く、ヤビツと片仮名表記され…
湯河原から箱根へと抜ける県道75号線の別称。沿道に椿が咲くことから命名された。 過去に有料道路であったわけでもなく、役所や観光協会などの公的な所でも説明が無いためか、椿ラインと呼ぶ範囲は曖昧なようで、奥湯河原から箱根までを指す場合もあれば、特…
三浦半島の突端部から城ヶ島へ架かっている橋で、総延長は715mの内、海橋部分は575mあり、最高部の高さは23.5mである。城ヶ島へ渡る車両の、唯一の交通手段である。 橋の三浦半島側の三崎は、中世より栄えた港で、昭和中頃になると、遠洋漁業の隆盛に伴って…
主に戦国大名の北条氏5代と江戸時代の小田原城下町をテーマにした歴史資料館だったが、NINJA館の愛称でリニューアルされ、現在は北条氏配下の忍者集団であった風魔党が展示の中心となっている。昭和4年(1929)建設の小学校の講堂を利用して平成10年(1998)4月1…
剱崎の海蝕崖上にある剱埼灯台 三浦半島の南東部突端の岬。剱崎と南南東の対岸にある洲崎を結んだ線が浦賀水道の南の口であり、広義の東京湾の入口ともなる。 一般的にはツルギザキと呼ばれるが、ケンザキと読まれることもあり、また、現地の灯台の案内板で…
三浦半島の南西の先にある島。 北西に灘ヶ崎、西に長津呂崎、南に赤羽根崎、南東に安房崎という北西から南東にかけて長細い島で、鎌倉時代からの景勝地であると共に、南の海食岸はウミウ等の鳥の貴重な生息地でもある。自然島としては神奈川県下最大で、面積…
三浦半島東端にある岬で、北東約7km先の千葉県富津岬とこの観音崎を結んだ線が、東京湾内湾の湾口部を成し、浦賀水道の北側の口ともなっている。 観音崎の名の由来は、奈良時代の名僧行基が、天平13年(741)に付近の漁民を苦しめていた大蛇を退治し、その霊を…
対岸の片瀬漁港から江ノ島の眺め 湘南地方屈指の観光地。周囲約4km、面積0.38km2の島で、江の島とも書く。 湘南海岸の沖に浮かぶ島だが、もともとは約2万年前まで本土と陸続きの台地だった。後に海食と地盤の変化によって切り離され、島となったのだが、現在…
鎌倉の中心部の南西、江ノ島の東約3.5kmにある、相模湾に突き出した岬で、稲村ガ崎と表記されることもある。「太平記」や、映画の「稲村ジェーン」で有名。 稲村ヶ崎は、刈り取った稲穂が積み重ねられた姿に似ているので名付けられたという。積み重ねた稲穂…
展望台から見る安房埼灯台と房総半島 城ヶ島の南東端の岬で、北緯35度7分45秒、東経139度37分48秒に位置する。読み方は、アワザキ、アワサキ、アワガサキなどいくつか見られるが、神奈川県のホームページではアワザキとあった。 城ヶ島は、全体的に台地とな…
富士箱根伊豆国立公園にある堰止湖で、箱根町のデータでは、周囲19km、面積6.9km2、最大水深43.5mの湖。 箱根山一帯は、およそ40~50万年前に活動を開始した活火山である。その活動は今も続いているが、初期から中期にかけての火山活動によって、箱根山は約2…
武田氏と北条氏の間で永禄12年(1569)に行われた、三増峠の合戦という山岳戦の古戦場跡。ミマセ峠と読む。 戦国時代の中頃より、時には争い、時には和していた甲斐の武田氏と相模の北条氏であったが、それぞれ武田晴信(信玄)、北条氏康が当主を務める時代にな…
三浦道寸は、諱を義同といい、三浦氏の実質的な最後の当主である。 三浦氏は、桓武天皇の第三皇子葛原親王の子か孫である高望王の系統で、一般に桓武平氏と呼ばれ、高望の庶子良文から始まったことから特に良文流という。この系統は関東で栄え、三浦氏を含む…
江戸幕府が、江戸城の内庭にあたる関八州と西国との出入りを監視するため、設けた関所。 碓氷関、新居関(今切関)、福島関と並んで幕府に重視された関所で、広義では東海道の脇街道にある川村関、谷ヶ関、矢倉沢関、仙石原関、根府川関の5つの関所を含んだ面…
バス停付近にある土肥郷椙山鵐ノ窟之碑 シトドノイワヤと読む。シトドとは、ホオジロなどの山鳥の小鳥の総称で、頼朝が来た時に洞窟から鵐が飛び立ったことからの名という。 平治元年(1160.1)の平治の乱において、平清盛に敗れた源義朝は落ち延びる途中の尾…
神社本庁の別表神社で、相模国一宮とされる。ただし、国府祭では寒川神社が一宮とされており、鎌倉時代の優遇によって鶴岡八幡宮が一宮と同格に扱われたため、一宮を称しているようだ。また、三大八幡宮に数えられるが、鶴岡八幡宮の代わりに筥崎宮が入るこ…
鎌倉の大仏で有名な寺院で、公式サイトには鎌倉大仏殿高徳院とある。正確には、大異山高徳院清浄泉寺という。 鎌倉の大仏は、日本三大大仏として有名だが、その創建に関しては不明な点が多い。「吾妻鏡」には、嘉禎4年(1238)に寺の所在地である深沢の地で僧…
マリンタワーは、横浜開港100周年記念事業の一環として、民間有志の発議によって山下公園の一角に建設が計画され、名前も市民から公募された。完成は昭和36年(1961)1月14日で、その翌日に開業され、平成21年(2009)5月23日と令和4年(2022)9月1日の2度、リニュ…
横浜が著名になるのは、幕末からである。それまでの付近の主要な湊と言えば神奈川湊で、横浜は、まさに字の通り横の浜という郊外の場所であった。だが、嘉永7年(1854)に日米和親条約が横浜村で結ばれ、横浜が国際港として発展する嚆矢となる。 和親条約に続…
隣接する熱海温泉と同様、湯河原温泉も多くの源泉があり、湯河原温泉郷と呼んだ方が正しいのだろう。 広義的に捉えると、城山南麓の湯河原温泉を中心に、西北方向のやや奥まった場所にある奥湯河原温泉、浜手の浜湯河原温泉も含める。熱海市との境界となって…
宿泊でも日帰り入浴でも利用可能な健康ランド型の温浴施設で、開店は平成15年(2003)9月20日。この施設は万葉の湯・万葉倶楽部の5号店にあたる。 宿泊予約サイトには、はだの万葉倶楽部とあったのだが、はだの・湯河原温泉万葉の湯というのも併記されていた。…
丸山城は、当時からそう呼ばれていたわけではなく、一帯は殿ノ窪という字で、明治以降の新たな丸山という地名から、この名で呼ばれるようになった。史料では、千鳥ヶ城とするものもある。 この地に最初に城を築いたのは、平安末期から鎌倉時代初期の武将糟屋…
土肥氏が築いたと伝えられる山城。 土肥氏は、桓武天皇から分かれた桓武平氏である。桓武平氏にも幾つか流れがあるが、土肥氏は第三皇子葛原親王の子か孫である高望王の系統で、この系統は平清盛を輩出したことから平氏の主流となった。ただ、土肥氏は高望の…
北条氏の領内に多く見られた、典型的な根小屋式山城。津久井は比較的新しい表記のようで、古い時代の城址碑などは、築井城という表記になっていた。 津久井城の築城は、鎌倉時代初期に三浦半島で勢力を伸ばした三浦氏の一族によるとされる。具体的には、源平…
北条氏の東相模の拠点。甘縄城ともいう。 玉縄城が築城されたのは永正10年(1513)で、その頃の北条氏は、三浦半島から鎌倉にかけて勢力を持っていた三浦道寸を破り、三浦半島の三崎にある新井城へ追い詰めた頃であった。だが、新井城は海と断崖に囲まれた天険…
小磯城の候補とされる大磯城山公園の案内図 小磯城に関して伝わる事跡は少なく、文明8年(1476)に上杉氏に対して叛乱を起こした長尾景春の家臣越後五郎四郎が、この城に籠もっていたとされ、翌同9年(1477)年3月に太田道灌に攻められて落城したというのが、唯…
築城時期は古く、平安時代末期に河村秀高によって築かれたという。 秀高は、藤原秀郷の後裔波多野義通の弟であるが、この河村郷を領したことから地名を名字にしたとされる。だが、河村郷は平安時代には史料に見られないことから、「駿河記」などから、秀高は…
北条氏で有名な小田原城だが、戦国時代の城の主郭部は後背の八幡山にあり、現在の小田原城の辺りには居館があったという。現在の城としての構造は、北条氏滅亡後に構築されたものである。 小田原城の歴史を辿れば、古くは平安時代末期に土肥実平の嫡男遠平が…
北条氏時代の小田原城の中心で、ここでは小田原古城と呼ぶことにするが、一般的には八幡山古郭と呼ばれる。とは言え、現在の小田原城からも戦国期の遺構が発掘されており、両者が全くの別城というわけではない。 小田原周辺は、古くは大江公仲が早川御牧を領…