鎌倉の中心部の南西、江ノ島の東約3.5kmにある、相模湾に突き出した岬で、稲村ガ崎と表記されることもある。「太平記」や、映画の「稲村ジェーン」で有名。
稲村ヶ崎は、刈り取った稲穂が積み重ねられた姿に似ているので名付けられたという。積み重ねた稲穂は稲叢と書いて同じくイナムラと読むことから、そもそもは稲叢ヶ崎と書いていたと思われる。また、万葉集に出てくる見越しの崎を稲村ヶ崎に比定する説もあり、鎌倉幕府が置かれる前から知られた場所であったようだ。
元弘元年(1331)から始まる元弘の乱の終盤、同3年(1333)に上野国で挙兵した新田義貞が、各地の幕府軍を破りながら南下し、鎌倉入りを目指して藤沢まで来たのだが、幕府軍は7ヶ所の切り通しの防備を固めたため、それを破ることができなかった。そこで、守りの薄い稲村ヶ崎を押し渡って鎌倉入りを果たし、幕府を滅亡に追い込んだという。

太平記では、この時に義貞が太刀を海中へ投じ、それによって龍神が潮を引かせたという描写をしており、太平記の名場面のひとつとなっている。この伝説に関しては、各種の検証によって稲村ヶ崎突破の真偽や日付などに様々な議論はあるのだが、太平記によって稲村ヶ崎が有名になったというのは、間違いない話だろう。
その後、江戸時代の幕末には、外国船に対する砲台場が造られ、太平戦争時には、潜水特攻兵器である伏龍の地下基地が置かれたり、本土決戦時の沿岸防衛部隊による横穴陣地が構築されたりするなど、相模湾に突出する陸地として、陸戦の要衝よりも海防の拠点としての色が濃い時代が続いたが、鎌倉時代から軍事における重要地点というのには変わりが無かった。
現在は、その軍事色も無くなり、国道より海側の部分が公園化され、鎌倉湘南観光のスポットのひとつとなっている。

七里ヶ浜の東に、相模湾へ少し突き出している丘が見えるが、これが稲村ヶ崎で、西側から見ると、稲村ヶ崎を境に海岸線が見えなくなっており、七里ヶ浜から続く海岸線が稲村ヶ崎で一旦区切られたような感じだった。
地形的には、切り通しのある極楽寺辺りの丘陵部がそのまま海まで延びたような感じで、昭和3年(1928)に切り通された国道134号線の開削部分が無ければ、義貞が苦労したように、鎌倉方面への巨大な壁のままだったのだろう。ただ、現在でも、七里ヶ浜や稲村ヶ崎の国道134号線は、路肩の少ない片側1車線の道路で、渋滞が頻発しており、車にとっては鎌倉方面への壁と言えるかもしれない。
最終訪問日:2013/5/17
鎌倉時代の末期も、太平洋戦争の時も、軍事に関わる場所でしたが、今は穏やかな公園となっていました。
稲村ジェーンの映画以降は、そのイメージが強いのかもしれませんね。
江ノ島の景色を見つつ、稲村ジェーンとBack to the Future 3のどちらを観るか迷ったのが、何故か思い出されました笑