Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大黒丸城

大黒丸城説明板

 越前での朝倉氏の最初の本拠で、三宅黒丸城ともいう。読み方が色々あるようだが、城跡近くの黒丸城町の読みがクロマルであり、斯波高経ゆかりの黒丸城と区別するために大小を付けたと思われることから、当時の一般的な読みを考え、オオクロマルと呼ぶのが正しいのではないだろうか。

 朝倉氏の本姓は日下部である。日下部氏は、但馬の大族であり、その中の一流が但馬国養父郡朝倉に住し、地名を名字としたのが朝倉氏の始まりという。

 日下部氏は、開化天皇の裔とも孝徳天皇の裔ともいわれ、但馬国造の系譜も汲んでいるが、古代の系譜には不鮮明な点が多く、実際は古代の霧の中といった所だろうか。始祖としては、日下部表米が挙げられ、その子孫は但馬で繁栄し、やがて朝倉氏へと繋がって行く。

 伝承では、高清の代に平家に味方したことから鎌倉幕府に捕縛され、領地を失ったが、高清は強弓の使い手で、誰も仕留められなかった白猪を退治したことから赦免を受け、旧領を安堵されたという。しかし、朝倉氏を継いだ次男信高が承久3年(1221)の承久の乱で宮方に属したことから、以降は衰退したようだ。後に、朝倉荘は長井氏が地頭を務めていることから、この時に領地を没収されたと見られ、以降も返還は叶わず、朝倉氏は長井氏の代官を務めていたという。

土塁か櫓の跡と見られる人工的な築山

 鎌倉時代末期の元弘元年(1331)から元弘の乱が起こると、同3年(1333)の尊氏の挙兵に朝倉一党は馳せ参じ、南北朝時代北朝方として活動した。ただ、越前朝倉氏の祖となる広景は、朝倉氏の嫡流ではなかったようで、本貫の地には戦国時代まで但馬朝倉氏が在り続けている。

 広景は、この南北朝の争いで斯波高経に従って越前に入国し、越前に足掛かりを得ることになるのだが、これは、高経が朝倉氏の旧主である長井氏と姻族であった縁からかもしれない。いずれにせよ、高経に従って建武5年(1338)7月の足羽七城での新田義貞との攻防に功を挙げ、広景は一帯を与えられて大黒丸城を築いた。

 ただ、翌年には義貞の弟脇屋義助の逆襲によって高経は加賀へと落去しており、さらに翌年の暦応3年(1340)には斯波勢が越前府中を奪回しているように、続く戦乱の中で統治拠点を築城する時間があったのかはやや疑問で、実際には越前復帰後の築城かもしれない。

 その後、広景の子高景と孫氏景の父子は、観応元年(1350)から勃発した観応の擾乱において、高経が尊氏の弟直義に味方したのとは反対に尊氏に味方して功を挙げ、足羽北荘を預けられたほか、高経が幕府内の政変で越前に下って叛乱を起こした貞治5年(1366)の貞治の変では、新しく任命された越前守護の畠山義深に従って戦功を挙げ、幕府より越前国内7ヶ所の地頭職を得ており、単純な斯波家臣という立場ではなく、外様らしい幕府に近い立ち位置だったようだ。

土塁跡と思しき地形

 この後、越前の情勢の安定と共に、朝倉氏の斯波家臣としての傾向は強くなっていくのだが、その勢力は既に大きく、甲斐氏や織田氏と共に守護代に任ぜられる家格となった。

 朝倉氏は、このように斯波氏の家臣としてこの大黒丸城で勢力を扶養し、やがて一乗谷城へと本拠を移すのだが、その時期には諸説ある。最も有名な朝倉始末記の説では、文明3年(1471)に7代英林孝景が一乗谷城を築いたと記されているが、守護である斯波義敏守護代甲斐常治が対立した長禄合戦の過程で、長禄3年(1459)に一乗谷城が攻撃され、留守を守っていた孝景の祖父教景が撃退したことが見え、この頃にはすでに一乗谷城を本拠としていたようだ。

 史料としては、老齢の氏景が、応永8年(1401)に一乗谷熊野権現を勧請したことが見えるのが最初で、これを根拠として、その子貞景が本拠を移したと推測する説がある。また、一説として、南北朝時代には既に本拠が移されていたともいう。大黒丸城の廃城時期は明確ではないが、戦国時代の史料に名が見当たらず、一乗谷城への本拠移転の際に廃城になったのかもしれない。

主郭部があったと思われる丘陵上は竹藪となっていた

 城は、九頭竜川の脇にある10m弱の丘陵地に築かれており、70m四方程度の単郭居館に近い城郭だったという。斯波氏配下の守護代三家の一角としては小規模に思えるが、物流としては府中と三国湊を結ぶ中間点であり、越前経済の動脈となる水運を押さえるにはもってこいの場所といえるだろうか。一乗谷城の築城が、近年では当初の定説より遡ぼっていることもあり、当初は、平時の治所が経済を掌握できる大黒丸城、戦時の防衛拠点が一乗谷城という運用だったのかもしれない。そして、長禄合戦の後、斯波氏の没落と朝倉氏の台頭で国内は戦乱が続き、一乗谷で平時と戦時の拠点を統合化したという推測もできるが、どうだろうか。

 城は、国道416号線の布施田交差点の北西にあり、布施田交点から北上して水路沿いの道へ入り、丘陵を右手に見ながら三宅町の集落に入って行くと、すぐに案内板がある。遺構としては、丘陵付近に五輪の塔と空堀らしき窪み、土塁らしき長い盛り土が確認でき、丘陵手前の一角にも5mほどの高台があるが、一見して明確に遺構と判断できるほどではなく、城跡と示されているから判る、という程度だった。

 丘陵内部にも足を踏み入れてみたが、竹藪と化しており、こちらにも残念ながら遺構らしきものは見えない。また、大黒丸城への対塁を築き易そうなすぐ西側の丘陵地は、武家屋敷等を取り込んだ城地としてはより向いていると考えられ、大黒丸城が城として本格的に活用されていたのなら、こちらにも何らかの施設はあったのではないだろうか。

 

最終訪問日:2018/5/27

 

 

新しい国道を挟んだ西側が黒丸城町なんですよね。

そっちばっかり探して、辿り着くのに相当時間が掛かりました。

ちなみに城があるのは三宅町

しかも黒丸城町にはちょうどそれっぽい丘陵があるんですよね。

絶対これは罠やわ~