Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

杣山城

杣山城本丸と城址

 北陸道を睨む杣山にあった城で、豪族瓜生氏の居城だが、伝承では大和源氏の祖となった源頼親平安時代中期に築いたともいわれる。

 もともとは、瓜生氏入部以前の杣山一帯には3千もの寺坊があり、地名も飽和庄と呼ばれていたようだが、後に越後国三島郡瓜生郷から瓜生衡が地頭となって入部した際、杣山庄と改められたという。

 瓜生氏は、酒呑童子の退治で有名な源頼光配下の四天王のひとりである渡辺綱の裔で、一字名からわかるように嵯峨源氏である。衡の4代前の定が越後に移り、その孫で衡の祖父である種が、前述の三島郡瓜生郷の地頭職として住し、地名を名字としたが、承久3年(1221)の承久の乱で宮方について没落したという。

 その後、前述のように衡が杣山へ入部し、衡の子保の時代の元徳3年(1331)に元弘の乱が発生する。この元弘の乱の頃の保の動向はよく分からないが、建武政権から足利尊氏が離反すると、当初は綸旨を受けて尊氏に属したものの、後に後醍醐天皇方に転じた。そして、建武3年(1336)から翌年にかけて金ヶ崎城に籠城していた新田義貞の要請に応じてこれを支援しており、一説には義貞自身やその弟脇屋義助が両城を行き来していたともいわれる。

杣山城跡森林公園案内図

 そのような情勢の中、保は兵站支援のために敦賀へ向かう途中で今川頼貞の待ち伏せに遭い、弟義鑑房や里見時成と共に討死してしまう。そして、落城する金ヶ崎城から脱出した義貞が、この杣山城に籠もって南朝軍を再編し、瓜生氏の残存勢力もそれに参加したと思われるが、ここでも北朝軍を支えきれず、義貞は更に北へと転戦して行くのである。

 この後、足利一門の斯波高経が、藤島の合戦で義貞討取るなど、越前からの南朝勢力一掃に活躍して守護となり、やがて家格の高さもあって幕府重鎮として威を振るったのだが、2代将軍義詮に疑われ、貞治5年(1366)に京から越前へ退き、引退した。これは、貞治の政変と呼ばれる出来事であるが、この時の退いた先がこの城で、当時の杣山城が越前の首城格であったことが解るだろう。この政変では、幕府は追手を差し向けるほどであったが、高経は翌年に病死し、義詮が没した後には子義将が幕政に復帰している。

 南北朝時代を経て室町時代に入ると、各国の守護が大抵そうであるように、斯波氏の当主もほとんどの期間で在京し、領国の統治は守護代が行うようになって行くのだが、越前では甲斐氏がその役目を務め、この城も守護代甲斐氏の拠点のひとつとして機能した。

杣山城西御殿

 やがて甲斐氏は、在地勢力として力を蓄え、長禄2年(1458)から守護と対立して長禄合戦を引き起こすなど、守護に匹敵する力を持つようになる。城の説明文には、この頃に斯波氏家老増沢祐徳が城主になったとあるが、祐徳も実質的には甲斐氏の家臣のような立場にあったようだ。

 しかし、その甲斐氏も、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱での両陣営の駆け引きから朝倉孝景と激しく争うこととなり、やがて武生の守護所を追われてしまう。そして、越後での主導権を失った甲斐勢は拠り所としてこの杣山城に籠ったが、ここも文明6年(1474)の日野川の合戦で敗れて落城すると、この年の内に甲斐氏は越前での拠点をほぼ失い、朝倉氏の越前守護としての地位が確立した。

 その後の戦国時代後半頃の杣山城の事跡は、詳らかではない。現地の碑には、朝倉家臣河合宗清が居したあるが、朝倉氏の滅亡時に討死した河合吉統の首が織田方に河合安芸守のものと記されていることや、宗清が安芸守だったことを考えると、刀根坂で討死したという吉統まで城主の地位を繋いでいたの可能性がある。

杣山城袿掛岩

 また、朝倉氏滅亡後の天正2年(1574)に、一向一揆が籠もったという記録が残っているが、一揆勢が籠る以前の城は、朝倉氏滅亡に伴って廃城もしくは空城となっていたのか、それとも誰か入城していたのかは不明で、最終的には、織田信長による一向一揆の掃討で完全に廃城になったようだ。

 城は、北国街道を眼下に見下ろす標高492mの杣山の中腹より上に築かれており、山頂の本丸と東側の次段という大きく2つの郭があるが、この主郭部には、それ以外にも境目が曖昧になっているものも含め、各峰筋に小さな段郭がいくつか確認できる。また、尾根筋で繋がる東西にも、本丸から離れて御殿と呼ばれる削平地があり、その他にも台地や落城時に女衆が飛び降りたという袿掛岩などの場所があった。

 ただ、防御的な面で見ると、東西の御殿はあくまで御殿、つまり大きな削平地といってもあくまで平時の場所という位置付けであったのか、防御の意識はそれほど強く感じられない。備えが厳重な主郭部以外では、袿掛岩と西御殿の間に複数の大きな段状の郭や馬場のような平地、櫓台と思しき台状の地形が設けられているなど、東西の御殿よりこちらの方が防御を意識していた様子が窺える。

本丸東側には段郭が幾段もあった

 この袿掛岩と西御殿の間に見所が多く、西御殿の案内図では台地という場所に見えたのだが、登山道入口の図では台地は別の場所のようで、台地という名の区画がどこにあたるかは判断できなかった。これ以外では、登山道沿いに複数の堀切や土橋、武者走りのような地形があり、また、殿池と呼ばれる水之手もきちんと残っている。ちなみに、この殿池の水量は年中一定という。

 また、杣山の北麓に目を向ければ、堀とした阿久知川があり、川沿いに一ノ木戸、二ノ木戸、武家屋敷跡の表示があるほか、谷の奥の土塁に囲まれた居館跡も確認できる。全体としては、戦国時代中後期の事跡が不明ということもあり、急峻な山の頂上に詰城を築き、平時は谷筋に延びた居館で生活するという、典型的な中世の山城といえるだろう。

 最初に訪れた時は、麓の木戸跡や居館跡周辺を散策し、中腹まで伸びている車道の終点まで登ったものの、時間と天気の関係で城跡に行かなかったが、9年振りに訪れた2度目は城跡まで登ることが出来た。一部つづら折りの階段があるなど、山容は峻険だが、西御殿まで到達すると、そこからは険しさも和らぎ、本丸にかけては見所も多い。

 標高や道程が中高年登山家にとっては程よい山になっているようで、杣山に登山した後、麓にある温泉で体を癒して帰る人も多いようだ。ただ、自分が登った時は誰一人として出会わず、静かな古城の姿だった。

 

最終訪問日:2010/10/11

 

 

9年掛けてリベンジ達成ですね。

山自体は非常に険しく、これぞ山城という城です。

ただ、縄張図が現地に無いので、散策ではイマイチ全体像が掴み辛かったですね。

遊歩道から見える場所に巨大な蜂の巣などもあったので、行かれる方は気を付けて登って下さい。