Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高浜城

高浜城本丸跡の城址

 永禄8年(1565)に、若狭守護武田家の有力家臣であった逸見昌経が築城したと伝えられる平山城の海城。

 逸見氏は、主君である若狭守護武田氏と同じ甲斐源氏の出で、武田氏初代信義の兄逸見光長が祖という。ただ、信義の系からも逸見姓を名乗る者がおり、光長の直系子孫がそのまま続いたわけではないと思われるが、いずれにしても血統的に武田氏に非常に近い一門である。そして、鎌倉時代から室町時代にかけては、いわば甲斐源氏惣領の証である甲斐国守護職を武田氏から奪わんとする有力一族であったのだが、結局は守護になれなかった。

 昌経の祖は、安芸武田氏が宗家から分出した時に付き従った逸見氏の裔と思われ、武田氏が若狭守護職を得た後は、京や若狭、丹後で逸見を名乗る武田氏の家臣が活躍しており、昌経はこれらの直接の子孫だろう。

 戦国時代の逸見氏の動向としては、同じく有力家臣であった粟屋氏のような大規模なものはなかったが、永正14年(1517)に非本流と思われる逸見庶家が武田氏に対して叛乱を起こしており、さらに天文7年(1538)には昌経自身が謀叛を疑われている。

高浜城本丸脇の堀切跡

 だが、昌経の場合は、叛乱を起こした庶家と違って若狭西部に相当な力を持っていたようで、武田氏も迂闊に手を出せなかったようだ。

 その後、昌経は武田信豊の有力家臣として仕え、信豊とその子義統が争った際には義統、次いで信豊方に味方し、義統を援助した朝倉軍と戦っている。また、後に義統と、義統の子元明を擁立する勢力が戦った際には、元明に与して再び義統を援助した朝倉軍と戦った。

 この信豊と義統が争った永禄4年(1561)、昌経は、内藤宗勝こと松永長頼と組んで前述のように朝倉軍と戦っているのだが、この時に居城であった砕導山城が落城してしまったため、水軍を意識して海際に新たに築いたのが高浜城である。峻険な地形の多い若狭では、最初の平山城であるともいう。ただ、築城翌年の永禄9年(1566)には、その水軍が義統の編制した水軍に敗れてしまい、高浜城も一時、義統方に奪われている。

 永禄11年(1568)、武田氏を後援していた朝倉氏は、統制力を失った当主元明を保護と称して越前へ連れ去り、若狭を実効支配した。これにより、武田旧臣は、朝倉氏への服属か将軍義昭を擁する信長に服属するかの選択を余儀なくされるのだが、昌経は織田方に味方し、天正元年(1573)の朝倉氏滅亡後は、若狭に入部した丹羽長秀の与力となっている。

麓の太鼓櫓跡

 こうして戦国時代を生き延びた逸見氏であったが、昌経が天正9年(1581)に没すると、後継者がいなかったのか幼かったのか、改易となってしまい、祖が同じ逸見氏の出ともいわれる溝口秀勝が城主を受け継いだ。秀勝は、丹羽長秀に仕えていた家臣であったが、高浜城主時代には織田直臣に取り立てられ、長秀の与力の立場だったという説もある。

 天正10年(1582)の本能寺の変後、長秀は秀吉に味方して翌年の賤ヶ岳の合戦にも参加し、越前の大半と加賀2郡を与えられた。代わって、若狭には新たに秀吉に近い武将が封じられ、高浜城は堀尾吉晴、次いで山内一豊が城主となっている。

 その後、長秀の没後に戦の際の統制不足などを理由として、子長重は所領が意図的に削られ、天正13年(1585)に若狭一国15万石へと戻されているが、この時に高浜城へ誰が入ったかはよく分からない。そして、天正15年(1587)の九州の役後には、長重は若狭も取り上げられ、加賀松任4万石へと減封されてしまった。長重転出後の高浜がどうなったかは不詳だが、文禄3年(1594)には木下利房が領しており、相変わらず秀吉に近しい武将が入る城という扱いだったようだ。

本丸にある四角い台状の地形は天守台跡か

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、西軍に属した利房は改易となり、若狭一国8万5千石を与えられて京極高次が小浜に入ったが、高浜城は、その家臣で若狭守護武田元明の子という佐々木義勝が城代を務めたという。そして、京極氏が出雲松江に転封となった寛永11年(1634)に、新たに小浜に入部した酒井忠勝が領内の城を整理したようで、廃城となった。

 城は、海に突き出た標高29.8mの小山に築かれており、規模はそれほど大きくないものの、三方を海に落ちる絶壁としているので、その防御力は高かったのだろう。昌経は、前述のように水軍を持っており、それを最大限生かせる立地と構造である。

 小さな削平地がある山の最上部には、やや盛り上がった櫓台と思われる場所があり、この第一郭の周りには帯郭も存在し、帯郭の先の海側は断崖となっていた。この断崖は、足を滑らせれば海まで転がり落ちそうなぐらい急なもので、海からの上陸は不可能だっただろう。

城山公園入口にある解説板

 また、本丸を画していたと思われる堀切跡は、現在は遊歩道になっており、橋が架かっている。橋を渡ったところが、二ノ丸と言うには狭すぎる第二郭だが、当時どのような様子だったのかは不明で、もう少し広かったのかもしれない。そこからさらに橋を渡って階段を下りたところには、やや広い第三郭があり、多少の居住空間があった可能性も考えられる。

 ただ、これら山上の郭は逸見氏時代のものと思われ、織豊時代に入ってからだと思われるが、南側の平地に二ノ丸、堀を挟んで三ノ丸が構えられ、近世平城化した。

 その他の遺構としては、麓の城山荘の前には台状の太鼓櫓跡があり、また、第一郭には僅かながら石垣の跡らしき石積もあったが、これら近世城らしい遺構は、秀吉政権樹立の頃から江戸時代初頭までの、比較新しい時代に整えられたものだろう。

 現在の城跡は、城山公園となっており、公園を造成したにしては不自然に思える所々の小さな平坦地が、公園の一部として活用されている郭跡だとすると、当時の縄張が解りやすい。付近には名勝である明鏡洞もあり、普通に散策しても十分に目を楽しませてくれる場所である。

高浜城跡から日本海を望む

 

最終訪問日:2009/4/18

 

 

1度目に訪れた際、もう夏は過ぎたのにやたら止まっている車が多いなと思っていたら、高浜城の東の海水浴場に、わんさかサーファーが繰り出していました。

城跡から見ると、まるで渡り鳥が波間に羽を休めているようで、面白かったです。

渡り鳥が毎年決まった頃にやってくるように、この辺りでは初秋の風物詩なのかもしれませんね。