Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

桑原城

 桑原城は、南東2kmにある諏訪氏の本拠上原城の支城だが、上原城を焼き払って桑原城に撤退したという諏訪頼重の最後の行動から、一説に桑原城がその頃の本城であったともいう。高鳥屋城とも呼ばれ、戦国大名としての諏訪氏が実質的に滅んだ際の城でもある。

 桑原城の築城時期は不明だが、古くは保元元年(1156)の保元の乱を描いた「保元物語」に、源義朝に従う信濃国の豪族として桑原氏が登場しており、一帯を支配していた桑原氏が、詰城として原型の城を築いた可能性もあるだろうか。ただ、想像の域を出ない話ではある。

 史料や事績を踏まえると、本城である上原城応仁の乱勃発前年の文正元年(1466)に存在していたと見られることから、この頃にはすでに支城として築城されていたのかもしれない。ちょうど、諏訪氏内部で大祝家と惣領家が争っていた頃でもあり、そのような時代背景から考えると、支城が構築されたという可能性は十分に考えられるだろうか。実際、文明15年(1483)には、下社の金刺興春が大祝の諏訪継満に味方して攻め寄せ、桑原城こと高鳥屋城から打って出た諏訪惣領家の軍が、金刺勢を撃退した事が見える。

桑原城本丸

桑原城説明板

 諏訪氏はこの後、惣領家を継いだ頼満によって統一され、戦国大名化して行くのだが、その過程で領土拡大による支城網の整備が行われ、桑原城も再編成されたのだろう。

 この頼満の跡を継いだのは嫡孫頼重で、隣国甲斐の守護武田信虎との婚姻関係から、共同して信濃国佐久郡などに出兵し、勢力を拡げた。だが、天文10年(1541)に信虎が嫡子晴信によって駿河へ追放されると、諏訪氏と武田氏の間は急転直下、敵対関係となってしまう。

 頼重は、翌年に攻め寄せてきた武田軍を上原城で迎え討ったが、諏訪惣領を狙う庶流高遠頼継や諏訪大社下社の金刺氏が武田氏に味方するなど、兵力差は圧倒的で、上原城で支えきれなくなった頼重は、7月2日夜に上原城へ火を放ってこの桑原城に退いた。

 しかし、3日夕方に陣の検分をしようと尾根を下って行く頼重を見た家臣らが、頼重が城を落ち延びるものと早合点して城から逃亡したため、近臣など僅か20名ほどが残るのみとなってしまい、夜が明けた翌4日に開城降伏したという。

桑原城二ノ丸から空堀を挟んで本丸を望む

桑原城縄張図

 この後、頼重は甲斐へと護送されて切腹させられ、戦国大名としての諏訪氏は滅亡した。そして、桑原城上原城と共に武田氏の所有となったが、上原城が武田氏の諏訪支配の拠点として新たな役割を与えられたのに対し、桑原城は史料に登場せず、間もなく廃城になったものと思われる。

 桑原城への登山道は、整備されていて距離も長くなく、登りやすい。整備された道が終わるところに段郭のような削平地が2段あり、更に空堀を越えると本格的な城郭に入る。

 まず目に入るのはこんもりと盛り上がった首塚で、一帯には東郭の表示があり、本丸東側は首塚の部分と東郭で2段の構成となっているようだ。そこから一段上がったところが本丸と二ノ丸で、両郭は空堀で区画されているが、高さは同程度である。また、二ノ丸西側にもやや下がって削平地が見られ、東郭と対比して西郭といったところだろうか。

 主にこの5郭で構成された城だが、大きく見れば、同じ高さの本丸と二ノ丸を合わせた主郭と、その東西にある次段というシンプルな構造で、上原城の支城という位置付けからも判るように規模も大きくなく、中世的な雰囲気を色濃く残した城だった。

桑原城東郭と本丸の切岸

桑原城二ノ丸の削平地と奥に見える諏訪湖

 

最終訪問日:2012/10/12

 

 

上原城へ向かおうとして入る道を間違え、桑原城の登山口を発見しました。

不幸中の幸いでしたね。

舗装路では無かったので、徒歩で登りましたが、整備されていて登りやすかったです。

登りやすくて眺望も良いので、もっと案内表示を増やしたらいいのに。