Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

平賀城

平賀城遠景

 平賀の地は、新羅三郎義光の四男盛義が、平賀郷を本拠として平賀冠者と呼ばれたため、平賀氏の本貫地となった。

 平賀城は、築城年代は不明ながら、その盛義の子義信によって築かれたという伝承を持つ。

 義信は、前述のように河内源氏嫡流に近い血筋で、惣領の源義朝に従って平治元年(1160.12)12月の平治の乱に参加し、敗れて京を落ち延びる義朝に従う7人の武将のひとりとなっている。

 この落去の際、義朝は長田忠致に裏切られて討たれ、その子頼朝は落伍して捕らえられているが、義信は信濃へ落ち延びることに成功した。とは言え、これ以降は平家一門が全盛となったため、この地で逼塞していたと見られる。

 後の源平合戦では、義信は当初、木曽義仲の軍に投じていたようだが、後に頼朝の軍に馳せ参じ、平治の乱での紐帯もあってか、頼朝治世下では鎌倉近隣の大国である武蔵の国司や守護を務めるなど、源氏の門葉の首座として御家人筆頭の地位にあったようだ。だが、北条時政と姻戚となった四男朝雅が、元久2年(1205)の牧氏事件の際に討たれ、嫡流で義信の孫にあたる大内惟信が、承久3年(1221)の承久の乱で宮方に与したため、平賀一党は没落した。

 その後も、平賀一帯には平賀を名乗る小豪族がいたようで、応永7年(1400)大塔合戦や、文安3年(1446)に佐久平賀の乱に断片的に登場するが、これが平賀氏の末流であるのか、それとも平賀氏没落後に平賀郷に浸潤したであろう、隣接する大井荘の大井氏の系統の氏族か、はたまた同じく隣接する伴野荘の伴野氏の系統の氏族か、その詳細は知れない。

 戦国時代の平賀氏としては、天文5年(1536)の武田晴信(信玄)の初陣において、武田軍の撤退行軍中からの晴信の急襲により、海ノ口城で討死した平賀源心が見える。

 源心は、その存在が疑問視されていた武将であるが、大井氏庶流の平賀玄信(大井成頼)に比定する説が有力となっており、この玄信が平賀城主であったようだ。玄信は法名であるのだが、少し前の時代の大井氏の当主が玄慶と伝わっており、玄の字を使っていることを考えると、惣領に近しい血脈の武将であったのだろう。

 海ノ口城の戦いがあったとされる年から5年後、晴信が父信虎を追放して家督を継ぎ、諏訪氏を滅ぼした後、いよいよ佐久郡へと再び侵攻を始めるのだが、その侵攻の過程においては、平賀城で戦闘や降伏があったかなどの詳細はよく分かっていない。谷筋を挟んだ北隣の内山城が、武田氏の支配後に拠点として重要視されていたことを考えると、向かい城となる平賀城が同時代に放棄されたとは考えにくいが、残念ながら武田氏時代の事績も、廃城時期も不明である。

 平賀城の縄張は、峰筋を長方形に削平して本丸から三ノ丸の主郭部を造り、順々に段差を設けて区画している形で、海尻城と非常によく似ており、その規模をかなり大きくしたと構造となっていた。その海尻城は、大井氏と対立した伴野氏の築城とされることから、平賀城にその影響があったとは考えにくく、佐久地方一帯の普遍的な築城方式だったのかもしれない。

 主郭部以外では、その背後がかなり険しい地形となっており、後堅固の城と言え、その崖下に巨岩と石垣を備えた搦手郭を配置している。また、主郭部の東側には無数の段郭があり、部分部分に石垣を備えていた。岩質の山だけに、身近にある豊富な石材を活用していたのだろう。ただし、主郭部含め、いくつかは積み方の違いから後世に積まれた石垣と見られることから、全てが当時の石垣ではなく、多少の改変もあるようだ。

 城へは、内山峠経由で上野へと抜ける街道であった国道254号線から滑津川を挟んだ南の旧街道沿いに、城山保育園というそのものずばりの名前の建物があり、その先の瀧不動尊の脇から整備された登山道が出ているほか、西側の住宅地からも入ることができる。ちなみに、この西側からの道が大手道という。比高もそれほどなく、勾配も比較的緩やかで、比較的登りやすい城だった。

 

最終訪問日:2019/5/11

 

 

登城口がなかなか見つからず、陽が沈みかけの時間だったのも焦りを招いたのか、なんとスマホをバイクに置いたまま、城に登ってしまいました。

途中で気付いたんですが、山を下りたらもう陽が沈んでしまうと、そのまま散策した結果、GPSログも写真も無い城に。

上の写真は、翌日に内山城へ登った後、遠景だけでもと撮ったものです。

気が焦るとロクなことが無いですね笑