Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

王城山城

 天王山城とも呼ばれる山城。

 この城の来歴は全く判っておらず、「新編相模国風土記稿」に「高さ四丈城跡と伝ふ」とのみある。

 相模湾沿いは、丘陵が海に張り出している場所が幾つもあり、この大磯付近もそのひとつだが、街道上の監視や警備のため、在地の勢力がそれらに兵を駐屯できる場所を造っていたと見られ、この王城山もそのようにして造られた城だろうか。

 歴史的に見ると、すぐ北の高麗山には、永享10年(1438)の永享の乱の際に鎌倉公方足利持氏討伐を目指した上杉持房が、永禄4年(1561)の小田原城攻めの際に上杉謙信が、それぞれ陣を置いたという伝承があり、その際に家臣などが造った陣城という可能性も考えられるだろう。

明治天皇観漁記念の碑がある王城山城最上段の削平地

 城のある場所は、標高が100m弱と、海に近い割に標高が高く、また、大磯港付近の照ヶ崎に丘陵が張り出す地形となっているため、海沿いの街道を通る軍勢は迂回しようが無い地形で、築城地としては良い場所である。しかしながら、主郭部はただ段状の郭が2段並ぶだけで、防御面の工夫が少なく、常設的な城という感じはしない。

 城であるならば、緊急的に頂上部を削平しただけの陣城という雰囲気で、常設的な施設と考えるなら、防御の必要性が薄い烽火台などのある連絡施設や街道の監視番所程度だろうか。

 頂上部の2段の郭から下がった中腹には、平場のような地形もあり、北側の民家の敷地となっている場所も、かつて削平されていた地形を流用したという想像もできるが、主郭部のシンプルさを考えると、主郭部から離れた場所に重層的に郭があったようには思われず、ただの気のせいかもしれない。

 城へは、国道1号線がJRと交差する付近の化粧坂交差点から集落を通って車道が出ているが、その道は細く、坂の途中で行き止まりになって駐車スペースも無いため、大磯駅から徒歩で向かったほうが無難だろう。

王城山城の次段には水道施設がある

 遊歩道を登った先の城跡には水道施設があり、その先に明治天皇観漁記念碑という立派な碑が建っているが、この碑の建っている場所が最高部と見られ、水道施設は段差を経た次段にある。だが、遺構自体は少なく、この削平部分を除けば、怪しげな所はいくつか見られるものの、遺構と確実に言えるものは無かった。また、安田財閥の祖である安田善次郎が小千畳敷と呼んでいたことから、明治以降にある程度の改変があった可能性もかなり高いと思われる。

 城跡としては、見るべきものは少ないが、水道施設があるためか、城の近辺は草も刈られて割と散策しやすい状態だった。城への遊歩道からは、やたらと大きな民家が見え、別荘地として栄えた大磯の名残が、まだまだこの辺りには残っているらしい。

 そこでふと、城跡はかつて、別荘地に来る人のための展望台として整備されていたのかもしれないと考えた。そう考えれば、明治天皇が今は辺鄙な場所であるこの山に来た事にも納得いく。だが、それはつまり、城跡に大きく手が入っていることの証左でもあるのかもしれない。

 

最終訪問日:2013/5/18

 

 

ここが城跡だったのかどうかはともかくとして、アクセスする道路が凄く急坂の道で、しかも狭く、大変でした。

観漁とあるだけに、木々を払えば海の良い眺望が開けそうなんですが、ちょっともったいないですね。