Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

峰山陣屋

開墾されている陣屋跡

 峰山藩京極氏の首府であった陣屋。

 峰山の地は、嘉慶2年(1388)に、丹後の守護であった一色詮範が、防衛のために後背の吉原山に築いた吉原山城があり、一色氏が田辺の守護所に戻った後も、奥丹後の拠点として一色一族の吉原氏が城主を務めていた。一色氏の最後の当主となる一色義清も、当初はこの吉原山城におり、吉原を称していたが、甥義定(満信・義有・義俊)が謀殺されたことでこの城から弓木城へと入城し、当主を継承している。

 天正10年(1582)の一色氏滅亡後、丹後一国は細川氏が支配し、吉原山城には当主藤孝(幽斎)の子興元が入城した。この興元が城を整備すると共に城下町を開き、字が違うものの嶺山と名付けたことで、峰山の歴史が始まるのである。

 ちなみに、戦国時代の城下町というのは、城下集住の制度が浸透していなかったため、大きな領主でなければ非生産人口が少なく、町というものが成立しなかった。吉原山城は、国主であった一色氏の一族の城であったことから、多少の城下町らしきものはあったと思われるが、興元の時代に開いたとまでいわれていることから、本格的な城下町はこの時から始まったのだろう。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、丹後は京極高知に与えられた。吉原山城については詳らかではないが、城は維持されたと見られることから、やはり奥丹後の拠点として活用されたのだろう。

 元和8年(1622)の高知の没後、その遺言によって丹後は3分割され、嶺山は高知の甥で養子となっていた高通が継ぐことになった。高通は、自身が領していた3千石と合わせて1万3千石の身代となり、大名となったのである。

 高通は、新たに嶺山を峯山と書くことを決め、泰平の世の中に合わなくなった吉原山城を廃し、その麓に陣屋を築いた。これが峰山陣屋である。以後、峯山の京極氏は移動することなく維新を迎え、戊辰戦争の際は高富が若年寄を務めていたものの、養子高棟が明治天皇に名代として拝謁していたことから、恭順を許された。そして、明治6年(1873)の廃城令で、陣屋は正式に廃城となっている。

 陣屋は、1万3千石という身代もあってか、シンプルな構造をしており、南西部に石垣を用いた虎口を持つ、居館があったほぼ方形の郭を中心に、その北東側に南北に長い馬場がくっついただけのものであった。方形の郭の山側と南西方向に、別に小規模な削平地も造られているが、これは氏神などといった宗教的施設が置かれていた場所ではないだろうか。

 陣屋がある場所は、現在の峰山市街の北西端で、県道からも近く、迷うことはないだろう。ただ、遺構自体はほとんど残っておらず、開墾されてしまっており、地形が往時を想像させるだけである。後背にあった吉原山城も登りやすい城であり、セットで陣屋と城を散策するのがお勧めだ。

 

最終訪問日:2001/10/25

 

 

自分が訪れた時は、完全に開墾され尽くして、ちょっと小高いだけの農地となっていました。

城跡や陣屋跡って平坦なんで、開墾されやすいんですよね。

今は史跡らしい感じになっているようなので、また訪れたいです。