Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

弓木城

弓木城登山口

 丹後守護一色氏滅亡の城として有名な山城。

 弓木城は、一色氏最後の当主義清が滅んだ城として知られているが、もともとは一色氏の城ではなく、稲富氏が築いた城である。稲富氏は、稲富と名乗る前は山田と名乗っており、一帯の開拓地主ではないが、この場所に移り住んで稲富保の地名から稲富を称したという。ただ、入部時期は明確ではなく、鎌倉時代末期とも室町時代のことともいい、それに伴って築城時期も鎌倉時代末期と室町期の2つの説がある。

 弓木城を本拠とした稲富氏は、室町時代の明徳2年(1391)から翌年にかけて起こった明徳の乱で功を挙げた一色氏が丹後の守護職を得た後、直時の代から一色氏に仕えたという。この直時は、祐秀の名でも知られ、佐々木義国という鉄砲名人から砲術を教わったといい、直時の孫祐直(直家)は祖父から砲術を学んで創意工夫を加え、稲富流砲術を開いた。そして、後には徳川家に仕え、砲術を指南している。

弓木城址碑

 天正6年(1578)から始まった織田軍の丹後攻略では、一色氏の当主義道は、翌年に敗れて没した。だが、祐直はその子義定(満信・義有・義俊)をこの城に迎えて徹底抗戦し、織田家細川藤孝の軍を何度も撃退したという。その結果、明智光秀の仲介によって藤孝の娘が義定に輿入れすることで和睦し、義定は、織田家臣の丹後半国の領主として家を存続させた。

 しかし、天正10年(1582)6月の本能寺の変の際、義定は光秀に味方したため、光秀の滅亡後に立場が悪くなり、結局は藤孝(幽斎)の居城である宮津城で謀殺されてしまう。ただ、義定の謀殺は変の前の2月という説もあり、この説であれば謀殺の背景が大きく変わることになる。

弓木城説明板

 義定の謀殺後、これを受けた義定の叔父義清が、吉原山城から弓木城に入城して一色家当主となり、丹後に残存していた親一色勢力を糾合して兵力を整え、再び弓木城で兵を挙げた。だが、数に勝る細川軍は、幾度もの攻撃を仕掛け、一色軍は徐々に軍勢を削られていく。やがて、落城必至の情勢となった頃、義清は手兵をまとめて包囲する細川軍を突破し、細川軍本陣へ向かって決死の切り込みをかけた。だが、異変を察した細川軍の本陣は義清の部隊を何とか食い止め、その間に弓木城から追撃してきた細川軍の攻城部隊が追いついたため、挟み討ちとなった義清軍は壊滅し、義清ももはやこれまでと自刃したことで、一色氏は完全に滅んだ。

弓木城本丸の細長い削平地と水無月神社

 一色家の滅亡後、代々弓木城を領していた稲富祐直は、細川氏に降伏して家臣として取り立てられた。この時、そのまま弓木城主として留め置かれたのか、宮津城下に移住したかは分からないが、織田家では、領地平定後に支配拠点以外の城を城割りすることが多いため、弓木城も廃城となった可能性が高く、祐直も宮津へ居を移したのではないだろうか。

 城は、大内峠から延びる山塊の先端分の、独立した標高60mほどの山にあるのだが、後世の改変が大きく、残存している遺構部分はあまり大きくない。山頂に細長い本丸があり、本丸の北東から時計回りに北西方向へ弧を描くように大きく4つの郭が残存しているが、これらは本丸とは少し標高差がある。また、それより下はどの程度まで城として整備されていたか判別できなかったが、岩滝小学校側の麓には土塁があるほか、小学校北側にも堀切があり、往時は相当の規模があったようだ。これ以外にも、本丸の東側にも削平地が造られている。

本丸の西直下にある稲荷神社

 城跡は、現在は城山公園として整備され、最高部の本丸の北東の下に稲荷神社、本丸の奥まったところに水無月神社の社があった。この水無月神社は、本丸から1m近く高くなっているが、これは整備時の工事によるものだろうか。もし、そうでなければ、天守的な櫓のあった可能性も考えられるだろう。

 往時にそんな櫓があったかどうかはともかくとして、山城としては予想以上に残っている部分が少ない城ではあったのだが、残存する遺構は比較的はっきりと形を残しており、散策は楽しめる城だった。

本丸北側下の郭と土塁

 

最終訪問日:2006/10/8/

 

 

一色氏最期の城という大仰な枕詞が付きますが、標高があまりないので、お手軽に散策できる山城ですね。

登山道でバイクの記念撮影もできて、良い写真になりました。