Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

玉縄城

 北条氏の東相模の拠点。甘縄城ともいう。

 玉縄城が築城されたのは永正10年(1513)で、その頃の北条氏は、三浦半島から鎌倉にかけて勢力を持っていた三浦道寸を破り、三浦半島の三崎にある新井城へ追い詰めた頃であった。だが、新井城は海と断崖に囲まれた天険で、容易に落ちず、伊勢盛時(北条早雲)は兵糧攻めへと方針転換する。

 この時に、三浦半島への連絡の遮断と、道寸の主君扇谷上杉氏の援軍に対する備えとして築かれたのが、玉縄城であった。実際、築城した年には扇谷上杉家臣で太田道灌の子資康の軍が援軍として攻め寄せているが、玉縄城近郊で早雲が撃破し、資康を討ち取っている。

 玉縄城の場所は、前述のように三浦氏の籠もる三浦半島扇谷上杉家の領した相模中央部や武蔵方面との連絡を断つ位置にあり、最初期は付城的な機能が主だったようだが、永正13年(1516)に三浦氏を滅ぼして三浦水軍を吸収すると、柏尾川から境川を通じて海に通じるこの玉縄城が水軍を統括する拠点となり、また、多くの寺社や未だ政治的意味の残る鎌倉を管轄するにも城は適地にあった。このように、玉縄城は次第に期待される機能が大きくなり、北条家にとって東相模を統括する重要拠点となったのである。

 城主には、重要拠点に相応しく北条一門や重臣が就き、初代は早雲の子氏時が任ぜられ、大永6年(1526)に三浦半島から鎌倉へ侵入した安房の里見義豊軍を柏尾川で撃退したという。氏時の没後は、2代当主氏綱の子為昌が若年ながら就任し、為昌の早世後は、氏綱の娘婿として為昌を補佐していた綱成が城主に昇格した。

 綱成が城主の時代であった永禄4年(1561)には、関東管領上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)に小田原城が包囲され、その時に玉縄城も包囲されている。だが、城門を固く閉ざし、城は落ちなかった。とは言え、玉縄城のお膝元とも言える鎌倉の鶴岡八幡宮において、景虎が上杉の家名相続と関東管領就任の式典を執り行っており、一時的に鎌倉管轄の機能を失ったのも事実である。

玉縄城址碑

 その後、小田原城は、永禄12年(1569)にも武田信玄に攻囲されているが、この時は武田軍主力が攻撃していた滝山城からほぼ真っ直ぐ南下しており、玉縄付近は武蔵府中から東へ迂回した別働隊が通過した程度で、ほぼ素通りという状況だったようだ。

 この信玄による小田原攻撃は示威的で、攻囲は数日に過ぎず、武田軍は津久井方面から撤退するのだが、その退路を塞ぐべく、滝山城北条氏照鉢形城北条氏邦が三増峠に陣取り、三増峠の戦いが勃発した。この戦いに綱成率いる玉縄衆も参加し、綱成は武田家臣浅利信種を討ち取っている。

 綱成以降は、その子氏繁、その更に子の氏舜へと城主の地位は受け継がれ、天正18年(1590)の小田原征伐の際の城主は、氏舜の弟氏勝であった。氏勝は、箱根の山中城に籠城していたが、城は3月29日の秀吉軍の猛攻によって僅か半日で落ちてしまい、氏勝はなんとか落ち延びて玉縄城に籠城することになる。しかし、敗残兵と留守兵では多勢に無勢であり、1ヶ月後に開城降伏し、氏勝は下総の北条領の道案内を務めた。

 戦後、旧北条領はほぼ家康に与えられ、玉縄城には家康の側近本多正信が入ったが、その所領は僅か1万石だったとも2万2千石だったともいう。

 徳川家の中枢では、基本的に権力と封土を反比例させる方針があったが、正信も君側にある者が大封を得ることの危険性を知っていた。しかし、嫡子正純は権力に奢り、正信の意に反して後に宇都宮15万石の大封を得たため、後に釣天井事件で失脚してまうのである。

 元和2年(1616)の正信の死後、玉縄藩は廃藩となったが、既に小山藩主として独立していた正純が同じ頃に2万石の加増を受けており、これは父の遺領分なのだろう。ただ、それが玉縄領を飛び地として継承したのか、替地が用意されたのかはよく分からない。

 その後、長沢松平正綱玉縄に入部して玉縄藩が再興されたが、孫正久の時の元禄16年(1703)に大多喜へ移り、以降は玉縄藩が置かれる事は無かった。

玉縄城址に建つ学校の門に掛けられた説明板

 玉縄城自体が廃されたのは、現地説明板では、一国一城令後の元和5年(1619)とあるが、正久の大多喜への転封時に廃城になったともいう。城周辺にある陣屋坂という地名から連想すると、城郭としての機能は一国一城令で廃され、小禄であった松平氏が城を陣屋的なシンプルな構造に縮小したのかもしれない。

 また、玉縄藩は寛永2年(1625)の朱印状によって成立したとされるが、玉縄藩領であった三河国津平村の、正綱の花押がある年貢割符が元和3年(1617)末の日付で見つかっており、この頃には玉縄藩として2万石余を領していたとの説もある。実際、寛政重修諸家譜には、同様の朱印状の記載がありつつもそれ以前から成立となっている藩もあり、もしかすると正信の死後、すぐに正綱が玉縄の地を得ていたのかもしれない。

 城は、早雲自らが縄張したと伝えられ、かなり大きな規模を持っていた。本丸を中心に、その東側に本丸土塁を拡張したような諏訪壇があり、ここは城中の最高所で、鎮守の諏訪社が置かれていたという。

 本丸の東側は谷で、北東に出丸を置き、北側は堀で区画し、その先にお花畑という平場があったようだ。大手は本丸南側で、この本丸の南から南西にかけて谷筋などの地形を利用しつつ幾つも郭を重ねて防御を固めていた。

 玉縄城跡の遺構は、昭和30年代(1955-64)までは残っていたようだが、私立中高校の敷地となったために大半が破壊され、城の最高部であったとされる諏訪壇しか残っていないという。しかも、学校ということで、自由に見学もできないようだ。

 だが、城址碑が学校裏門近くに建てられており、学校裏門にも説明文が掲示されていたほか、調べたところによれば、学校正門付近にも別の城址碑があるらしい。ちみなに、この裏門付近が大手門の跡という。

 このように、城の遺構は皆無に近いのだが、城が忘れ去られたわけではなく、城廻や陣屋坂、七曲など、城にまつわる地名も残っているほか、地元有志の活動も活発なようで、歴史を伝えようとする活動には頭が下がる。最終的には玉縄城址公園の実現を目指しているそうで、著名な城の痕跡が無さ過ぎる現状はあまりにも惜しく、その実現が非常に楽しみだ。

 

最終訪問日:2013/5/18

 

 

城跡周辺は住宅地で道も広くなく、車を止めるスペースが無いため、城へは徒歩かバイクで行ったほうが無難ですね。

ちなみに、学校へ事前に申請を出せば、見学は可能だそうです。

城址公園ができた暁には、鎌倉観光と併せて、また行きたい城ですね。