Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

下田城

 下田城の築城時期は不明だが、延元2年(1337)の古書に本郷氏島城主志水長門守とあり、この本郷は稲生沢川の下流域に現在も残る地名で、氏島城が鵜島城、すなわち下田城のことであるという。このことから城は、南北朝時代には既に在ったようだ。

 その後、城の事跡は不明となるのだが、戦国時代初期の明応2年(1493)に堀越御所足利茶々丸を打倒して北条早雲が伊豆を掌握した後、やがて北条家臣朝比奈孫太郎なる人物の所領となり、北条氏の水軍根拠地として城砦が築かれたという。

 この孫太郎なる人物は、玉縄衆であったというのは知られているが、詳細は不明で、北条早雲の伊豆入りの際に今川氏から付けられた駿河衆四家のひとつ、朝比奈氏の出であると思われる。孫太郎は、下田に領地があったものの、相模の玉縄衆であることから、飛び地のようなものであった可能性が高く、下田城に常在していた可能性は低そうだ。

下田城最高部の伝天守台と鵜島城址と刻まれた城址

下田城伝天守台の削平地

 また、これとは別に、笠原康勝が下田城代だったという説もある。康勝は、小机城代を務めて小机衆を率いた信為の子であり、伊豆北部の郡代を務めたといわれ、城代職はその役職との絡みが有ったのではないだろうか。いずれにせよ、この時代の下田には既に地生えの豪族がおらず、北条家臣の支配する土地であったらしい。

 下田城が本格的に歴史上に登場するのは、戦国時代も最末期にあたる小田原征伐の少し前で、天正16年(1588)の大改修からである。これは、小田原征伐の契機となる名胡桃城奪取事件の1年前であり、秀吉との対決が決定的となってからではない。

 秀吉台頭以降の北条氏は、表面的には中央勢力である秀吉と友好的な関係を模索しつつ、一方で領内の主要城郭を改修強化しており、来るべき決戦への備えを怠ってはいなかった。この下田城の強化は、その延長線上にあったものである。

天守台南側には長大な空堀がある

下田城の馬場ヶ崎へと続く細長い削平地は名の通り馬場か

 北条氏は、伊豆加納矢崎城主で伊豆衆筆頭の清水康英を城主に据え、決戦が不可避となった天正17年(1589)末には、小田原から江戸朝忠らを派遣し、雲見の高橋氏や妻良の村田氏ら南伊豆の豪族達も城へと入城した。そして翌同18年(1590)、豊臣水軍と呼ばれる秀吉配下の長宗我部元親九鬼嘉隆ら水軍衆が約1万の兵力で城を囲んだ。

 約1万の攻囲軍に対し、城内の兵力は僅か6百余と寡兵で、圧倒的に不利な状況であったが、城将康英は約50日に渡って防戦に努めた。しかし、兵力差は如何ともできず、降伏勧告を受け入れて4月下旬に康英は開城し、河津の林際寺に隠棲したという。そして、この2ヶ月後には小田原城も開城し、早雲の伊豆入り以来、約100年に渡った北条氏の伊豆支配は終焉を迎えた。

 戦後、旧北条領は、ほぼそのまま家康に与えられ、下田には徳川家臣戸田忠次が5千石で入部したが、慶長6年(1601)に忠次の子尊次が転封した後は天領となり、下田奉行が置かれることとなる。これに伴い、役目を終えた城は廃城となった。

下田城案内板

下田城から下田港の眺め

 城は標高約69mの山に築かれ、北西から南東にかけて尾根筋に主郭が連なる城だが、谷筋が深く入り込んで尾根が切り立っているという地形で、その尾根を削平して造られた最高部の伝天守台を含む主郭部はどれも細く、日常的な居住空間があったようには思われない。最高部からやや下がった開国記念碑がある場所には大きな削平地があるが、記念碑造営のために手が入っていると思われ、郭跡を利用しているのはほぼ間違いないとは思われるものの、往時にどの程度の規模だったのかは不明である。

 このような平場の少なさから、城はあくまで籠城用の施設で、平素はやはり水軍の城らしく海際にその機能が集中していたのだろう。現地の復元図でも、城主である康英の居館は北東側の海際に描かれ、居館や船溜まりを守護する城壁のように城とその斜面が背後から迫り、水軍城らしい様子となっている。

 とは言え、城に目立った遺構が無いわけではなく、主郭部の南西側にはかなり規模の大きな空堀があり、その幅、その長さは相当なもので、康英が入城した際に防御力強化のために築かれたものだろう。そのほか、最高部の伝天守台や細長い削平地が続く馬場ヶ崎など、城の名残を示す地名も残り、往時を想像しながらの散策が楽しい城である。

 

最終訪問日:2013/5/19

 

 

訪れた時が、たまたま黒船祭りの日で、街中は雑然としていましたが、城の辺りはのどかなものでした。

やはり下田は、幕末のペリー来航から続く一連の黒船騒動で日本最初の開国の場所となった場所ですし、幕末のイメージの街なんですね。