Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小山城 (遠江)

 小山城がいつ頃に築かれたのかは定かではないが、伝承によると、文治年間(1185-90)に小山朝光こと結城朝光によって砦が築かれたのが最初という。

 ただ、文治年間というと、源平の争乱終結後であり、その末期が奥州藤原氏との戦いがあった程度で、時代背景からは、砦を築く理由が見つけられない。

 その後、室町時代から戦国時代に掛けては、駿河遠江を領した今川氏の城となり、山崎ノ砦と呼ばれた。今川家の家臣の所領を記した「今川分限帳」には、井伊直親が領していたことが見えており、後には岡部元信が一帯を支配したと思われる。

 この頃、今川氏では、当主義元の討死と跡を継いだその嫡子氏真の失政があり、急速に大名としての求心力が失われて行くのだが、これを受けた隣国の武田信玄徳川家康は、永禄11年(1568)12月に共謀して今川領へと侵攻した。

小山城本丸の城址

小山城本丸から二ノ丸へと出る虎口の丸馬出

 その結果、駿河は武田氏、遠江は徳川氏の領地となるのだが、今川氏真が落ち延びた先の掛川城で籠城し、大名としてまだ完全に滅んでいない内に、信玄は家康との約を違え、翌同12年(1569)には遠江への進出を図るようになる。こうして小山城は、遠江駿河の境目の重要な城と見られるようになった。

 これ以降の小山城の事績は、岡部元信が武田氏に降伏開城したと見られ、氏真と共に北条氏に身を寄せたことから武田氏が支配し、同年以降に家康が松平真乗に命じて城を奪ったようだが、これには諸説あって年代がやや不明確である。いずれにしろ、幾度かの攻防と奪取があったのは間違いないようで、元亀2年(1571)に武田方が城を奪い返し、馬場信春に命じて大規模な改修を受けると、大井川西岸の戦線を構成する城として機能し、高天神城などの東遠攻略の拠点となった。

 武田家領有当初、小山城の城代には大熊朝秀が任命され、翌元亀3年(1572)末まで1年半ほど在城し、その援将として相木昌朝も在城したようだ。信玄が元亀4年(1573)4月に没した後は、実質的に跡を継いだ勝頼の頃に朝秀の嫡子長秀が在城したことが見える。

小山城三日月堀の三重堀の最も内側の堀

小山城三日月堀の三重堀の外側の堀には水が残る

 天正4年(1574)6月、勝頼は2万5千の軍を発し、長年の目標であった高天神城の攻略に成功しているが、小山城は、新たに築城された諏訪原城と共に、駿河方面から進出する際の拠点として機能したと思われ、戦後は両城が高天神城への兵站拠点となった。

 この後、天正3年(1575)5月の長篠の合戦で武田軍が織田・徳川連合軍に敗れると、諏訪原城は8月に奪われてしまい、敗残の兵を小山城に迎えている。諏訪原城を落とした家康は、酒井忠次松平康親の進言で、武田軍の敗戦の傷が癒えぬ間に小山城をも攻め取ろうとしたが、勝頼が各地から2万の兵を集めて出兵したことから、この時は兵を引いたという。

 ちなみに、この攻防においては、蒲原小兵衛、鳥井長太夫、朝比奈金兵衛、望月七郎左衛門、岡部忠次郎、鈴木弥次右衝門等が城将として見える。

 その後、高天神城は同9年(1581)まで武田家が維持しており、その兵站拠点として小山城も機能し続けていたと見られ、天正6年(1578)、同8年(1580)に徳川勢と小競り合いがあった。

小山城二ノ丸に建つ模擬天守から内堀と丸馬出と三日月堀を見下ろす

小山城模擬天守から吉田市街と駿河湾

 高天神城落城後は、小山城が前線となったが、天正10年(1582)の織田・徳川連合軍による甲斐侵攻の際、城兵は城に火を放って甲斐へと落ちている。これに伴い、侵攻してきた徳川勢が城を占領したが、駿河遠江が徳川領となったため、境の城という役目を失って廃城になったという。

 城は、湯日川に突き出した丘陵先端の舌状部分を区画して城としており、丘陵の地形をうまく利用した武田氏の城らしい崖城である。舌状丘陵の先端が本丸で、空堀によって丘陵の根元と区画し、主要部に三日月堀と丸馬出を組み合わせて設けているというのは、規模は違えど、大井川西岸の防衛線として同様の機能があった諏訪原城と共通する構造だろうか。また、周辺を歩いてみると、崖の腰部にもいくつか郭跡と見られる削平地が見られた。

 現在の城跡は、能満寺山公園となっており、二ノ丸に模擬天守が建っているが、それ以外の遺構の保存状態は良い。小山城の見所は、二ノ丸外縁の三重の三日月堀だが、そこもはっきり残されていて見応えがあった。このほか、本丸と二ノ丸の間の空堀と、武田家特有の丸馬出の三日月堀も保護されており、古城としての趣は十分である。

 

最終訪問日:2016/5/22

 

 

三日月堀を始め、土の城の造作感がいいですね。

これらに比べると、二ノ丸に建つ模擬天守の作為感が目立つんですが、展望台からは大井川が作り出した平野や遠州灘までが見通せて心地よく、また、城内全体を眺めるにもちょうど良かったので、意外と有用でした。