Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小山城 (甲斐)

 小山城の築城時期は不明であるが、宝徳2年(1450)には穴山伊豆守が居城していた。

 この伊豆守は、上杉禅秀の乱に加担して討伐された甲斐守護武田信満の弟で有力庶家である穴山氏を継いでいた、満春の子といわれているが、信満の嫡子で従兄弟にあたる信重によって追放され、信重の子信介が穴山氏を継いだために恨みを抱いたという。そして、この小山城主であった時に、信重と交戦していた黒坂太郎に与して出陣し、信重を急襲して自刃に追い込んだ事が見える。

 その後、小山城周辺は、伊豆守系ではなく河内を領した穴山宗家の飛び領地に戻ったようで、信介の孫信永が永正年間(1504-21)に城主として在城し、大永3年(1523)には鳥坂峠を越えて侵入してきた南部宗秀と戦っているが、信永は敗れて二ノ宮の常楽寺に落ちて自刃したという。

 この常楽寺は、城から北西1kmほどの御坂町二之宮の美和神社の近くにあったとされるが、地図を見ても寺名が見当たらなかった。信永が帰依していた寺だったのだろうか。

土塁のそばにある小山城址碑と説明板

 時代背景としては、武田信虎家督争いを制したものの、従わない国内諸豪族はいまだ多く、これらと戦いつつ今川氏の侵入を受けるなど、まだまだ甲斐国内が混乱にあった頃の話である。

 前述の宗秀は、信虎・晴信(信玄)父子に仕えた武将で、元は河内地方の南部城主であり、岩手三戸や青森八戸の南部氏と遠祖を同じくし、本貫である甲斐国南部に残った末裔という。宗秀が鳥坂峠から攻めたということは、甲府盆地を経ずに南の山塊を通る街道経由で小山城まで進軍したはずだが、その距離は長く、それだけ河内や甲斐南部には、既に信虎に味方する豪族が多かったということの表れと見ることができる。

 穴山氏に勝利し、穴山氏に代わって小山城代となった宗秀は、その後25年に渡って城代職を務めたが、天文17年(1548)に晴信の勘気を受けて追放され、城もその時に廃城になった。

小山城址碑と周囲を囲う堀

 その後、天正10年(1582)に武田氏は織田・徳川連合軍の侵入で滅亡し、甲斐は織田家臣河尻秀隆が治めたが、これも僅か数ヶ月後に本能寺の変が発生したため、変に乗じて発生した国衆の一揆によって秀隆が討たれてしまい、甲斐は無主の地となる。

 これにより、隣国の徳川氏と北条氏による天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が発生し、この城も、郡内を押さえた北条軍から甲府を押さえる徳川軍の背後を守るための拠点として修築され、徳川家臣鳥居元忠が在城した。そして、北条軍1万が御坂峠から来攻すると、元忠らが2千の兵で迎え討ち、見事撃退している。

 この戦いは黒駒合戦といい、この勝利によって戦線が膠着し、補給線が脆い北条軍は次第に利を失い、やがて両家の和睦によって甲斐は家康の手に帰した。そして、戦時の拠点として修築された小山城も、役目を終えて放棄されたのだろう。

見事に残っている小山城の土塁

 城は、富士山から続く山塊が甲府盆地で尽きる辺りのなだらかな丘陵地にあり、北の天川、南の堀川を天然の堀として使い、天川が削った河岸段丘の上に築かれている。そのため、比高はそれほど無いものの、崖城と言えるだろうか。

 前述のように、鳥坂峠から甲府盆地に出た所に構えられた城である上、城の北側には、甲府から御坂峠を越えていく鎌倉街道が通っており、街道筋を押さえる要衝の城である。

 また、甲斐の中心部は甲府というイメージが強いが、城が機能していた室町時代の守護所は石和にあり、小山城は、信虎が躑躅ヶ崎館に拠点を移すまでは、鎌倉街道や守護所との位置関係からも、かなり重要な城と見られていたのではないだろうか。宗秀追放後に一旦廃城となったのも、この本拠移転による重要性の低下という事情があったと思われる。

小山城説明板

 城の構造は、非常にシンプルで、1辺100m程度の方形単郭の城となっており、南側の土塁が通路開削のために削られているが、それ以外の土塁とその外の空堀は非常によく残っていた。また、土塁には張り出し部分もあり、櫓が建てられていたようである。

 現在は、果樹園が広がる農村の中にあり、地区の広場として使われているようで、郭の内部は整地されて運動場のようになっていた。恐らく、盆踊りや祭りなどに使われていると思われ、集落で維持されているなら今後も荒れることは無さそうである。郭の内部が、往時にはどのような様子だったのかは窺い知れないが、もしかすると、内部で更に区画されていたのかもしれない。

 城の周辺は、果樹園の間を縫うような農地特有の細い道が多く、目ぼしいランドマークも無いため、なかなか辿り着くのに苦労した。大まかには、県道34号線の八千蔵の交差点を南に折れ、小さな橋を2つ渡ってすぐの右手側に城はある。

 

最終訪問日:2012/10/14

 

 

果樹園の中にあって、果物王国の山梨らしい風景の中にある城でした。

シンプルな構造ですが、土塁や空堀は綺麗に残っていて、城としての存在感が強かったですね。