Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

甲府城

 武田信玄の居城として知られる躑躅ヶ崎館の南、甲府盆地北部の一条小山に築かれた城で、山の名から一条小山城とも呼ばれたほか、甲斐府中城、赤甲城、舞鶴城という別名がある。

 城のある一条小山には、古くは武田氏の初代である武田信義の嫡男一条忠頼が居館を構えていたという。

 忠頼は、源平の争乱において、甲斐源氏の有力武将として活躍したものの、争乱の決着がつく前に、頼朝陣営内の政治的争いから元暦元年(1184)に頼朝に暗殺されてしまうのだが、この居館跡の一条小山には、忠頼夫人によって尼寺が建立され、やがて時宗の一連寺となった。また、躑躅ヶ館の築城後は、城下町南端の守りとして砦も置かれていたという。

 甲府城の築城は、天正10年(1582)の武田氏滅亡後、僅か数ヶ月の織田氏の治世を挟み、天正壬午の乱で北条氏との争奪に優位な和睦を結んだ家康が、甲斐を統治してからである。

甲府城本丸と天守

甲府城天守台から稲荷郭を眺める

 甲斐一国は、家康の人質時代から従う平岩親吉が代官となり、武田旧臣の宣撫と領国経営を行ったが、家康が親吉に命じ、一連寺を移転させて同11年(1583)にその中心となる城を築かせたのが最初という。だが、親吉は城の完成を見ることなく、天正18年(1590)の小田原征伐に伴う家康の関東移封に伴い、上野厩橋へと移った。

 豊臣政権にとって仮想敵国とも言える家康が関東へ移ったことで、関東と隣接する甲斐には、家康の監視という新たな役割が与えられるようになる。家康の後に甲斐へ入部した武将を見ると、秀吉の甥羽柴秀勝、古参家臣の加藤光泰、光泰の死後は親族の浅野長政と、秀吉がいかに甲斐を重要視していたかが解るだろう。

 そして、甲府城の築城は秀吉側としても必要だったようで、要害山城に在って僅か1年足らずしか治めなかった秀勝の頃から工事が再開されたのかは諸説あるようだが、少なくとも光泰の頃には再開され、文禄2年(1593)に入部した長政・幸長父子によってようやく完成している。

復元された甲府城稲荷櫓

甲府城天守台から本丸鉄門にかけての高石垣

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、東軍に味方した幸長は和歌山に加増転封され、甲府城は再び家康自らが押さえ、親吉を城代として奉行らによる代官支配をさせた。これは、秀吉と同様、江戸から近い甲斐を家康も重要視したためだろう。

 その後、慶長8年(1603)に家康の九男義直が僅か3歳ながら甲斐を与えられたが、変わらず親吉が城代を務め、家康の方針に従って統治し、実質は変わらなかった。

 慶長12年(1607)、家康の四男で清洲藩主の忠吉が没すると、義直は尾張へ転出し、親吉も従ったため、甲斐は幕府直轄の城番制となる。これ以降は将軍家筋の城となり、直轄時代を挟みつつ、2代将軍秀忠の三男忠長の属領を経て、3代将軍家光の三男綱重とその子綱豊が続き、綱豊が5代将軍綱吉の後継として家宣を称し、宝永元年(1704)に江戸城へ移ると、綱吉の館林藩主時代から小姓として付き従った側用人柳沢吉保に与えられ、初めて徳川氏以外の藩主となった。この間、綱重と吉保が城を改修している。

 その後、綱吉死去に伴って権勢を失った吉保は隠居し、子吉里が大和郡山へ移ると、甲府勤番が置かれ、火災や御金蔵破りに遭いつつも勤番制が幕末まで続く。

甲府城遊亀橋から水堀と石垣

甲府城稲荷櫓門と重層的な石垣

 幕末には、時勢の紛糾から慶応2年(1866)に城代が置かれたが、期待された役割を発揮することがなかったようだ。このため、鳥羽伏見の戦いの後の慶応4年(1868)3月、勝海舟の命で新撰組甲陽鎮撫隊となって甲府城を目指したが、行軍の遅れから板垣退助らの率いる新政府軍の甲府城への無血入城を許し、同月6日の甲州勝沼の戦いで敗れている。そして、城は明治6年(1873)の廃城令で廃城となった。

 城の構造は、南の荒川、西の相川を天然の堀として使い、惣堀である三ノ堀で城下町を囲って惣構えとしている。そして、その内側の城に近い部分を、武士の居住区である内郭として二ノ堀で区画し、更に内側の内堀で一条小山を囲って内城としていた。

 一条小山頂上部には本丸と、その東端に天守台を置き、一段下がった南側に帯郭のような天守郭を設け、これらから更に一段下がり、西に二ノ丸、北から東にかけて稲荷郭がある。天守郭の南側は鍛冶郭で、内城で最も低い場所だが、最も広い。この鍛冶郭と稲荷郭の東には数奇屋郭というのがあり、ちょうど両郭の間ぐらいの高さがある。

甲府城縄張図

甲府城天守台から僅かに見える富士山

 現存するのはこれだけだが、絵図を見ると、今のJRの鉄路を挟んで北側に山手御門があり、今の城の西側の道に沿って内松陰門を出たところが屋形郭、甲府駅と線路の辺りが清水郭で、屋形郭はその名の通り藩主の屋敷があったらしく、東西北に水堀が穿たれて厳重な構えだ。また、今の県庁の場所も城跡で、楽屋郭と呼ばれ、南に張り出した郭だった。

 地図を見ると、二ノ堀が図書館付近や桜通り付近に僅かに見られ、濁川となった三ノ堀もかなり残っており、惣堀で区画された城下町はかなり東西に長く、クランク状の街道跡がはっきり判って面白い。

 廃城後、城は陸軍省が管轄し、明治10年(1877)頃にはほぼ建物が失われてしまったが、同37年(1904)から公園化され、昭和43年(1968)の史跡指定後、平成2年(1990)から本格的な発掘調査と史跡公園化がされた。これにより、稲荷櫓、山手御門、稲荷郭門、鍛冶郭門、内松陰門が復元されたほか、訪れた時も鉄門が復元工事中で、今後も益々城らしくなっていくのだろう。駅から近い城で、天守台からは甲府市街が一望でき、富士山も見えるため、観光客の数は割と多く、自分も運良く富士山を拝めることができ、満足な散策となった。

 

最終訪問日:2012/10/14

 

 

天気も良く、非常に心地よく散策できました。

ただ、その心地よさに浮かれて、甲府駅前の武田信玄像を見忘れたのは、ちょっと心残りですね。

歩いてすぐなのに。