Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

増島城

増島城南東面の野面積の石垣

 天正13年(1585)に、秀吉の家臣金森長近によって飛騨を統一していた姉小路頼綱が討伐された後、古川城に入った長近の養子可重が、翌年に古川盆地支配のために築いた近世平城。

 増島城の築城後は、可重がそのまま城主となっていたが、長近が慶長13年(1608)に没すると、同年かその前年に可重は高山城へと移り、増島城には可重の嫡男重近が入った。このように、金森家にとっての増島城は、世継ぎが入城する城となっていたようだが、重近は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣の直前に、徳川方に味方する父を批判して廃嫡されてしまい、翌20年(1615)の可重没後は、三男の重頼が跡を継いでいる。

増島城説明板

 ただ、重近は、父や祖父と同じく茶の湯に優れ、その号から採った宗和流茶道の始祖として名を残し、藩を継いだ重頼も、藩政に力を注いで名君としての誉れ高く、可重の子はどちらも優秀であった。

 可重が没したその2ヶ月後、改元されて元和となり、元和偃武として一国一城令が出されると、増島城は、領内の同じ支城である萩原諏訪城や東町城と共に旅館と名を変え、城と公称できなくなりながらも、古川旅館の名称で維持が図られている。

 その後、飛騨の資源支配を目的としたのか、元禄5年(1592)に飛騨一国が天領となり、金森氏が出羽国上山へ移されたため、同8年(1695)に高山城や萩原諏訪城と共に破却された。ただ、石垣などを見ると、高山城ほど徹底した破却ではなかったようである。

天守台に鎮座する御蔵稲荷社

 城は、飛騨で唯一という平城で、宮川へと注ぐ荒城川が合流点の手前でうねった場所にあり、南西側をこの荒城川で守っていたようだ。

 構造としては、北西から南東へ方形の郭が並ぶ連郭式の城で、西から2番目の本丸が最も大きく、最も西の郭は本丸に近い大きさ、本丸東側の二ノ丸は本丸の半分程度の大きさである。二ノ丸の東にも東ノ丸という郭が続くのだが、この郭は非常に長細く、動線制御の目的が強い郭のようだ。また、これらの郭は、全体が幅広の水堀で囲われており、いかにも近世平城という縄張の城であった。平地が少ない飛騨では、かなり貴重な城である。

増島城南西面東側の石垣は横目地が通っている

 現在の城跡は、本丸から二ノ丸にかけての城域が古川小学校の敷地となっており、天守台近辺がその一角に御蔵稲荷神社境内として残っている。特に、この神社の石垣と、その北東面の水堀は、いかにも城といった趣があって素晴らしい。

 残されている遺構から見ても、説明板にあるように近世平城らしい方形、石垣造の城というのはよく解るのだが、石垣自体は、後世に見られる谷積みの部分が多く、神社を遷座する際か、石垣を積み直した際に再構築された部分がほとんどのようである。往時の石垣は、南東側の部分が現存のものと思われ、この部分はかなり見事な野面積で、城を散策する際は、必ず押さえておきたい部分だ。

 全体としては遺構は多くないのだが、天守台と水堀という、城の主要な一角が現代の狭い範囲に凝縮されたような、そんな印象を持つ城である。

増島城の水堀と後世のものと思われる御蔵稲荷社の石垣

 

最終訪問日:2017/5/20

 

 

中世的な城が多い飛騨の中では、バリバリの近世城の雰囲気で、異質と言えば異質な城かもしれませんね。

残っている部分は多くないですが、野面積の石垣がかなりの迫力で、良い城でした。