Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

広瀬城 (飛騨)

 飛騨国府の盆地南東端にある山城。国府付近を領地にしていた広瀬氏の居城として築かれ、田中城とも呼ばれた。

 広瀬氏は、藤原利仁の流れというが、史料が少なく、その実態は知れない。地生えの豪族であったのか、地頭、あるいはその下で現地を差配する代官であったのかは不明だが、南北朝時代に飛騨の有力者として広瀬常登入道の名が登場することから、鎌倉時代から南北朝時代に掛けて勢力を拡げたのだろう。

 その常登入道は、応永18年(1411)に古川姉小路家の尹綱が小島姉小路家と小鷹利姉小路家を攻めた動乱の際、尹綱に味方して討たれているが、子徳静入道は討伐側の幕府軍に味方しており、滅亡は免れ、以降も広瀬氏は有力国人として存続したようだ。

 その後、戦国中期に至り、当主利治が天文年間(1532-55)に新城を築いて本拠を移したとされ、それが広瀬城のことという。利治は、後に高堂城を築いて移り、広瀬城は支城となったようだが、高堂城は瓜単川沿いの奥まった場所にあるため、普段は広瀬城に滞在していたという説もあり、実際の運用がどうだったのかは不明である。

広瀬城東郭群最高部にある城址

広瀬城東郭群の虎口

 利治の子宗域(宗城)の時代になると、飛騨では三木氏の勢力が抜きん出るようになり、小島姉小路家の協力を得た三木良頼は、他の姉小路家を没落させ、その名跡を継ぐ事に成功した。

 この頃、宗域は、良頼やその子頼綱(自綱)と協力関係にあり、永禄元年(1558)には高山盆地へも援兵として出陣しているが、三木氏こと姉小路氏の下風に立っていたことは否めない。だが、その関係はあくまで中世的な盟主的存在に過ぎず、外交関係は状況によって流動的に動いた。

 実際、永禄7年(1564)に武田家臣山県昌景が飛騨に侵攻した際には、宗域は姉小路氏より早く武田家に臣従しており、天正4年(1576)に上杉軍が飛騨に侵攻した際には、上杉軍に味方して姉小路氏を攻撃している。

 天正10年(1582)の本能寺の変で信長が横死した後、同年10月に織田家を後ろ盾としていた姉小路氏に対し、高原の江馬輝盛が戦いを仕掛けたが、宗域はこの時、頼綱に味方して連合を組み、連合軍は八日町の合戦で輝盛を討って江馬氏を滅亡に追い込んだ。

広瀬城中央郭群最高部の城址

中央郭群の下部にある広瀬城主だった田中筑前守の墓

 しかし、頼綱は、手段を選ばない野心的な人物で、翌年には宗域を松倉城に招いて謀殺している。八日町の合戦での功もあり、宗域は油断してしまったのかもしれない。

 こうして広瀬氏は没落し、宗域の家臣田中与左衛門が守っていたという広瀬城は、高堂城と共に頼綱の領有となり、その隠居城となった。

 広瀬城の主となった頼綱は、信長没後の後継者争いの際、柴田勝家と誼を通じつつ、その間に前述の宗域の謀殺等を含め、着々と地歩を固めて念願の飛騨統一へ邁進していたが、勝家滅亡後もその与力であった佐々成政と協力していたため、天正13年(1585)に秀吉の命を受けた金森長近の侵攻を受け、高堂城と広瀬城に籠もるも、敵わずに降伏している。こうして、頼綱の飛騨支配は僅か数年で瓦解してしまった。

 戦後、長近の飛騨侵攻の道案内を務めた宗域の子宗直は、旧領回復を望んだが、論功行賞では報われず、城も廃城となっている。その後、宗直は長近に対し、同年の内に他の没落国人と共に一揆を起こしたが、討伐され、飛騨から追われたという。

広瀬城西郭群最高部の2段の郭

西郭群の周囲に明確に残る畝状竪堀

 城は、宮川に合流する瓜巣川が南から東を洗う、ほぼ独立した丘陵に築かれており、北側は宮川が防御線となっている。

 城の構造としては、丘陵上の東西に並ぶ3つのピークをそれぞれ削平して郭としており、東側と中央のピークは一体的に使われていたようだ。また、そこから伸びる稜線にもしっかり段郭が築かれている。

 これに対し、最も西のピークはやや独立的で、東西は堀切によって分断されており、附帯する畝状竪堀の密度も非常に高い。これだけ部分的な構造の性格に違いがあるということは、東西どちらかが広瀬氏時代に構えられた部分で、その反対側が姉小路時代に改修によって手を加えられた部分ではないだろうか。

 国府名張文化財保護センターにバイクを止めて登ったが、城の手前の未舗装道も広く、車ならそこまで上っていけるだろう。登山道に動物避けの扉があり、何故か開け閉めできなくなっていたが、内側に木材が置かれているので、乗り越えられるようになっている。

広瀬城解説板

東郭群突端の削平地

 登山道左手は、東のピークから延びる尾根筋で、段郭が造られているように、すでに城域であり、大きい段郭には社が祀られていた。田中筑前守の墓にお参りしてから更に登って行くと、帯郭を持つ東のピークと中央のピークの間に到達するが、どちらにも城址碑があり、構造的にも高さ的にも、どちらが本丸か判別が難しい。

 その西の続きには、竪堀として落ち込む大きな堀切を挟み、やや低い郭が段を持って続いており、これが西のピークで、こちらも帯郭を持っている。この西側部分がこの城最大の見所で、この郭から畝状の竪堀が幾つも斜面に穿たれており、部分的に横堀も相まって山中城の障子堀の凹凸反対の状態を成し、なかなか壮観だった。

 国道41号線名張交差点から南へ折れ、県道471号線を少し東に行けば、城跡への案内が出ており、道に迷うことはないだろう。松倉城や高山城に次ぐ規模を持つ飛騨屈指の山城で、登り易くもあり、城好きの人は、高山や古川に寄ったら、間違いなく立ち寄っておいて損はない城である。

 

最終訪問日:2017/5/20

 

 

飛騨のお城としては、マイナーな部類に入る城だと思いますが、知名度とは反対に、壮大な遺構が残るお城でした。

期待していなかっただけに、とても良かったです。

高山や古川の街並みに寄った際には、是非訪れて欲しいですね。