Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

寺林城

 築城年代や詳しい事績は不明だが、大正時代に出された「斐太後風土記」に拠れば、最初は寺林付近の領主久米城之介の居城であったと里に伝わっていたようだ。後に、その家老玄蕃が城代となったことから、玄蕃ヶ城や玄蕃城と呼ばれたが、久米氏の没落によって玄蕃の家も帰農したという。

 その後、江馬氏が進出し、その家臣寺林大内蔵が居城したとされ、別の説では、築城者の名は複数あるものの、天文年間(1532-55)に寺林氏によって築かれたともいわれる。これは、空城となっていた城を再築し、城主の名を取って寺林城と呼んだのかもしれない。

 江馬氏は、高原郷を中心に奥飛騨の雄として勢力を拡げ、戦国時代中期には武田氏、武田信玄没後に上杉軍が飛騨に侵攻して以降は上杉氏に臣従し、一時は越中南部にまで勢力圏を伸ばしていた。

 しかし、天正10年(1582)の本能寺の変後、織田家を後ろ盾としていた姉小路氏への攻撃の好機と見て高山盆地に攻め込んだ際、当主江馬輝盛が八日町の合戦で討死してしまい、総崩れとなって一夜にして滅んだ。

 この時、退却路上にある大坂峠で輝盛に殉じた十三人の家臣がいたが、その中に寺林甚四郎という名が見えており、寺林城主か、それに連なる一族の者だった思われる。この時の城の事跡は不明だが、越中東街道で大坂峠から巣山を通って高原郷に入る入口部分に城があるため、江馬勢の総崩れによって放棄されたか、追撃によって瞬く間に落城したと考えるのが妥当だろうか。

 城は、延々と坂を下っていく途中の堀之内地区と寺林地区の間ぐらいにあり、国道41号線から山田川を挟んだ向かいの小山に築かれている。立地からして、いかにも街道監視のための城というのが解り易い。

 訪れた時は、国道を走りながら城跡の表示を地図で確認し、城の大まかな位置の見当はついたが、寺林の集落に入って集落西端の道から城への登山道を探したものの、表示や登山口などは見つけられなかった。草が繁茂し出す季節でもあったので、表示が隠れていたのかもしれない。先を急ぐということもあって、登城は断念した。

 

最終訪問日:2017/5/20

 

 

怪しく思われるのを覚悟で、何度もウロウロしてみたんですが、城を示す手掛かりは見つけられませんでした。

南東側に史跡の標柱があるとか。

う~ん、南東側は何度も往復したんやけど・・・