築城年代や詳しい事績は不明だが、大正時代に出された「斐太後風土記」に拠れば、最初は寺林付近の領主久米城之介の居城であったと里に伝わっていたようだ。後に、その家老玄蕃が城代となったことから、玄蕃ヶ城や玄蕃城と呼ばれたが、久米氏の没落によって…
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