Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

都道府県別-石川

能登島大橋

能登島大橋を本土側から 能登半島の和倉温泉付近と能登島を結ぶ橋で、七尾西湾と七尾南湾を分かつ屏風瀬戸という狭隘部に架かる橋。全長は1050mで、昭和57年(1982)4月3日に開通した。 能登島では、車社会の時代の到来により、本土との連絡橋架橋の機運が次第…

ツインブリッジのと

七尾西湾と七尾北湾を分かつ三ヶ口瀬戸を跨ぎ、能登半島と能登島の西側を結んでいる橋で、「ツインブリッジのと」は愛称である。正式には中能登農道橋といい、平成11年(1999)3月27日に開通した。 能登島へのアクセスは、このツインブリッジのとが開通するま…

千里浜なぎさドライブウェイ

千里浜の水平線とバイク 日本で唯一、砂浜を走ることができる観光道路。昭和30年(1955)頃から、自然発生的に走行可能な砂浜の道路として次第に認知された。 石川の加賀地方の海沿いは、砂の供給が多い上、風浪による砂の押し戻しが多く、延々と砂浜が続く海…

白山市立鳥越一向一揆歴史館

加賀の一向一揆の最後の拠点となった鳥越城と二曲城の間にある、一向一揆に関する歴史資料館で、両城の案内室の役割も担っている。平成13年(2001)4月14日の開館。 加賀を支配した一向一揆は、長享2年(1488)に守護大名の富樫政親を打倒したことにより、国人衆…

津幡ふるさと歴史館 (れきしる)

津幡ふるさと歴史館れきしるの外観 平成28年(2016)4月21日に開館した、郷土館的な性格もある歴史館。愛称は「れきしる」。 津幡という場所は、能登、加賀、越中の結節点で、古くから交通の要所として発展していた。そのため、歴史的な遺跡も多く、国指定史跡…

禄剛崎

禄剛崎に建つ禄剛埼灯台と日本海 能登半島北東端の岬で、禄剛埼灯台は北緯137度19分35秒、東経37度31分44秒に位置する。 禄剛崎周辺は、古くからの日本海航路の難所で、北前船の西廻り航路が発達すると、事故を防ぐための目印として狼煙が焚かれた場所であっ…

鷹巣岩

能登半島のリアス式海岸を代表するような地形が続く能登金剛にあり、その中心的な名勝である巌門のすぐ南にあるそそり立った奇岩。読みはタカノスと間にノが入り、地図によっては鷹の巣や鷹ノ巣と書かれるようだ。 能登金剛とは、海に張り出した岩がいろいろ…

恋路海岸

のと恋路号が停車する在りし日の恋路駅 能登半島の突端東側、大きく弧を描いた海岸線の南側にある約1kmの海岸で、悲恋物語が伝わっている。 その昔、助三郎という青年が鍋乃という女性の命を助けたことから、二人は恋仲となり、この場所で逢瀬を重ねていた。…

巌門

波の静かな巌門 能登半島の東岸、リアス式海岸を代表するような、岩が競り立った地形が続く能登金剛の中心的な名勝で、幅6m、高さ15m、奥行き60mの大きさを持つ海蝕洞門。 能登金剛は、岩礁美を持つ朝鮮半島の金剛山にちなんで付けられた名で、巌門周辺には…

安宅関跡

梯川の河口部にあったみられる、弁慶と義経の逸話で有名な関所の跡。現地の碑には安宅関址とあり、安宅の関や安宅ノ関と書くことも多いようだ。 平家追討に大功のあった源義経は、後白河法皇に利用されて兄頼朝と対立し、叛乱の兵を挙げたものの、敗れて流浪…

兼六園

兼六園案内図 林泉廻遊式の大名庭園で、金沢藩の代々の藩主が愛した庭園。日本三名園、もしくは三大庭園のひとつに数えられ、国の特別名勝にも指定されている。 兼六園作庭以前のこの場所は、百間堀と言う堀を挟んだ城のすぐ向かいということもあり、前田家…

金沢松島温泉 (テルメ金沢)

金沢にはいくつか温泉があるため、金沢の後にその地名を続けて温泉名としており、金沢松島温泉もそのひとつなのだが、温浴施設としてはひとつしかなく、実質的にはテルメ金沢のことで、こちらの方が一般的に名前が通っていると思われる。また、源泉名として…

松任城

松任城の築城者には諸説あるが、現地の年表には、加賀介近藤師高が平安時代末期の安元2年(1176)に館を築いたのが最初とある。 この加賀介近藤師高は、加賀守であった藤原師高のことで、平家物語にも登場し、鹿ヶ谷事件に連座して討たれる人物なのだが、安元…

二曲城

綺麗に整備された二曲城本丸全景 鳥越城と共に、百姓の持ちたる国と言われた加賀の一向一揆の最後の拠点となった城。フトゲ、あるいはフトウゲと読む。 この城は、麓に居館を置いていた二曲氏の詰城で、二曲氏が築いたとされるが、その時期は不明という。二…

七尾城 (能登)

室町幕府の三管領家畠山氏の分かれである、能登畠山氏の居城で、五大山城のひとつ。 城主であった畠山氏は、もともとは桓武平氏秩父氏流で、武蔵国男衾郡畠山郷の荘司となったことに発する。源平合戦の際は、剛直清廉な坂東武者の典型といわれた重忠が当主で…

鳥越城

二曲城と共に、百姓の持ちたる国と言われた加賀の一向一揆の最後の拠点となった城。 永禄11年(1568)の信長上洛により、本願寺は信長と接点を持つ事となるが、当初、法主顕如は信長との対立を好まず、要求された矢銭を払うなど融和的であった。しかし、織田軍…

天堂城

能登畠山氏の家中で大きな勢力を誇った温井氏の居城。 温井氏の祖は、南北朝時代の元中2年(1385)に東福寺の塔頭のひとつである栗棘庵を再興した覚山空性という。この栗棘庵の庵領が志津良荘にあり、どのような繋がりかは不明ではあるものの、温井氏は覚山空…

津幡城

津幡城最高部の物見にある城址碑 津幡町の東部には、源平の合戦の一局面として、源義仲と平惟盛が寿永2年(1183)に戦った倶利伽羅峠があるが、惟盛軍が砦を構築して布陣した場所が津幡城とされ、それが城としての最初という。ちなみに、倶利伽羅峠で大勝した…

末森城 (能登)

登山道口にある末森城の古戦場跡の碑 末森城は他にもあるため、能登末森城とも呼ばれるが、その表記にはばらつきがあり、末盛や末守とも書かれる。 末森城の築城者は不明で、相模から越中へ地頭として入部した越中土肥氏の、その庶流と思われる土肥親真が築…

大聖寺城

大聖寺城縄張図 大聖寺城の築城時期や築城者ははっきりしていないが、もともとは大聖寺という白山五院に数えられた寺があり、その寺坊跡を城郭に流用したと考えられる。 具体的には、在地豪族であった狩野氏が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて築いたといわ…

小丸山城

能登を与えられた前田利家が、府中と離れた山上にあって経済的発展の望めない七尾城から府中へ本拠を移すため、天正9年(1581)に築城した。 利家は、織田家の北陸方面軍の軍団長であった柴田勝家に寄騎として従っていたが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長…

小松城

梯川を外堀として廻らす平城で、もともと芦原だった湿地帯を切り開いて築城されているため、芦城の別名がある。梯川とそれに付随する湿地が、防御の要となっていたのだろう。 築城の伝承としては、本願寺配下の武将若林長門が天正4年(1576)に築いたというの…

金沢城

言わずと知れた加賀藩100万石の領主前田氏の居城。 金沢城の前身は、尾山御坊や金沢御堂と呼ばれる寺院城郭で、この創建は天文15年(1546)とされる。戦国時代の加賀は、長享2年(1488)に守護富樫氏を倒した一向衆や地侍層が支配しており、百姓の持ちたる国と呼…

穴水城

穴水城址碑と説明板 能登畠山氏の重臣であった長氏の居城。 長氏は、源平の合戦の直前、平氏追討の令旨を発した以仁王の下で活躍し、清盛にもその忠義を評されて助命された長谷部信連が、鎌倉幕府の御家人として能登国能登郡や鳳至郡周辺の地頭に補任された…