Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

天堂城

 能登畠山氏の家中で大きな勢力を誇った温井氏の居城。

 温井氏の祖は、南北朝時代の元中2年(1385)に東福寺塔頭のひとつである栗棘庵を再興した覚山空性という。この栗棘庵の庵領が志津良荘にあり、どのような繋がりかは不明ではあるものの、温井氏は覚山空性の出身氏族であったのか、その代官として勢力を蓄えたと考えられている。

 また、別の説として、南北朝時代の武将桃井直常の弟直信の子景信が温井景直の養子となって家を継いだともいう。ただ、この話が本当であれば、それまでの藤原姓から源姓への転換となるのだが、戦国時代初期の当主俊宗は藤原姓を名乗っているため、後世の仮冒の可能性が高い。いずれにしろ、温井氏の創始が不明瞭というのは間違い無さそうだ。

 温井氏として史料に最初に登場するのは、前述の文明年間(1469-87)に見える俊宗で、その頃には大屋荘へも勢力を伸ばしていたと見られる。大屋荘の輪島小屋湊を手中に収めたことで、輪島の産業や海運、東北や九州との中継貿易などを背景に経済力を増していったのだろう。この天堂城の築城も、輪島を掌握して以降と考えられる。

倒れてしまっている案内板と天堂城遠景

 俊宗の跡は、孝宗が継いでいるが、孝宗は享禄4年(1531)に畠山家臣として参陣した太田の合戦で討死しており、子総貞が継承した。総貞は、能登畠山氏の全盛期を築いた主君畠山義総に重用され、畠山家中で大いに台頭している。更に、義総没後に義総の弟駿河守の父子が一向一揆の支援を得て羽咋に乱入した押水の合戦で、温井一党が大きな功を挙げたことにより、総貞の勢力は更に伸張した。

 しかし、これにより、守護代の遊佐続光との関係が大いに悪化し、両者は天文19年(1550)に武力衝突を起こす。この時、総貞は義続を擁立して七尾城に籠城するが、後に攻勢に転じ、最終的に両者は和睦した。これにより、家臣団を統率できなかった義続は責任を取ったのか、嫡子義綱に家督を譲って隠居し、重臣による合議体制へと移行するのである。この体制を、畠山七人衆と呼ぶ。

 畠山七人衆の中では、当然ながら総貞と続光は双璧であった。だが、対立関係の両巨頭が円満な運営を維持するのは当然ながら難しく、早くも天文22年(1553)には、続光が出奔して再び一向一揆と結び、能登に侵攻している。この戦いは大槻一宮合戦と呼ばれ、形の上では続光の謀反ということになるが、その実、総貞と続光の権力争いであった。

繁茂する草に埋もれ掛けた道標と遊歩道

 この戦いは、七尾城の西の大槻で両軍が激突したのだが、遊佐勢が敗れ、敗走する遊佐勢を追撃した温井勢が一宮で壊滅に追い込んだ。ただ、大将である続光は徒歩立ちになりながらも、なんとか落ちることに成功している。

 戦後、第二次畠山七人衆と呼ばれる合議制が成立するのだが、当然ながら2強の一角を追い落とした総貞の勢力は大きく、次第に専横を極めていく。そうした中、権力奪還を狙った義綱が飯川義宗に命じ、弘治元年(1555)に総貞を連歌の会に招いて暗殺し、温井氏は一気に存亡の危機に立たされることとなる。一説には、総貞が義綱の幽閉を図ったのが先に露見したためともいう。

 これに対し、嫡子続宗や姻戚の三宅氏らは、加賀に逃れて一向一揆の助力を得、畠山晴俊を擁して能登へと攻め込んだ。これを弘治の内乱と呼ぶ。

 この内乱は、3次に渡って行われたが、晴俊や続宗など主要な武将が悉く討死し、永禄3年(1560)頃には終息した。ただ、温井勢の侵入路は常に南で、その拠点も勝山城や福水などであり、天堂城は名前も出てこない。温井一党は能登から落去している上、畠山側にも引き継ぐべき有力な温井一門がいないため、天堂城はまさに空城になっていたのではないだろうか。そして、温井氏の没落後、輪島や天堂城は畠山氏に接収され、援将として入国した越中の国人八代俊盛に与えられたようだ。

複数ある石垣の痕跡

 弘治の内乱後、温井一党はなかなか復権できず、続宗の子景隆がようやく能登に復帰できたのは、義続・義綱父子が追放された永禄9年(1566)となる。と、同時に天堂城主、及び輪島の領主にも返り咲いたようだ。ただ、温井旧領を与えられていた俊盛はこの命に服さず、やがて永禄12年(1569)に叛乱を起こして討死し、それによって景隆がようやく旧領を回復したと見られる。

 その後、能登畠山家は、景隆、続光、そして長続連の3者の連合政権のようになり、義綱の子の義慶、義隆、義隆の子の春王丸と相次いで若年の当主が立てられた。そして、天正4年(1576)から翌年に掛けて2度に渡る上杉謙信の侵攻があり、七尾城内で上杉氏に内応した景隆と続光が続連を謀殺して開城している。

 だが、天正6年(1578)に謙信が病没すると、後継者争いの御館の乱に乗じて両者は七尾城代鰺坂長実を追い出し、織田方に寝返った。しかし、織田家には続連の子連龍がおり、仇討ちに燃える連龍に連敗したことで天正9年(1581)頃に七尾城を明け渡さざるを得なくなっている。

 その後、景隆は、同10年(1582)の本能寺の変後に上杉家の後援で能登に侵攻したが、敗れて討たれたという。また、景隆が連龍に敗れて能登を落ちた後の天堂城の事跡もよく判っていない。

天堂城木戸元右門への通路

 城は、輪島を形作った2筋の河川のひとつ、鳳至川を遡った先にあり、標高224mの山頂から鳳至川に向かって主に東側に郭が構築されている。温井氏の経済的拠点の輪島から、かなり奥に入った場所ではあるが、屋敷という地名が残っており、平時にも使われた城であったようだ。

 国道249号線から分かれる県道51号線を少し入った別所谷町には、城跡へ延びる舗装された道はあるのだが、狭いため、車では注意が必要だろう。その道を登って行くと、鐘突堂、首きり畑、木戸元、円山、殿様屋敷、兵庫屋敷、本丸と、次々と道標は出てくるのだが、城域はほとんど手が入っておらず、草木が生い茂る季節というのもあって大半が藪となっていた。

 遺構の中では、一番確認し易かったのが空堀で、登山道左手に綺麗に残っており、その向こう側の銭蔵も、山城を散策したことがある人なら簡単に城だと解る特徴的な段郭状の形状をしている。ただ、それ以外では、草を払いつつ石垣の痕跡や殿様屋敷まではなんとか確認できたのだが、その他は明確に形を判別できなかった。整備されれば、規模の大きい城だけに散策し甲斐がかなりある城になると思うのだが、ちょっと勿体無い城である。

 

最終訪問日:2018/5/28

 

 

能登の実力者だった温井氏の城ですが、整備されているとは言えないですね。

案内板も倒れてて、縄張図の所が剥がれている状態で、とても可哀想なことに・・・

七尾城がピカイチなだけに、少し分けてあげて欲しいですね。