Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

亥山城

亥山城址碑と堀跡の池

 越前大野城の城下町にある、日吉神社の境内が亥山城である。城は、居山城や土橋城とも呼ばれた。

 亥山城が史料に登場するのは南北朝時代で、「太平記」には、暦応2年(1339)7月に堀口氏政が居山の城より出て5日の間に11城を落としたとある。氏政は、新田義貞の家臣堀口貞満の一族で、新田庶流でもあり、前年に越前国藤島燈明寺畷で討死した義貞と共に越前に入って活動し、義貞死後も南朝勢力として亥山城で踏ん張っていたのだろう。そして、義貞の弟脇屋義助の指示により出陣して前述のように諸城を落としながら河合庄で他の南朝勢と合流し、北朝方の斯波高経の居城黒丸城を包囲して高経を加賀へ追い落とした。

 だが、この年は後醍醐天皇崩御した年でもあり、首魁を失った南朝方の奮戦は短期間に過ぎず、僅か2ヶ月後には北朝方の逆襲が始まり、翌年8月には黒丸城も奪回されてしまう。そして、翌年の暦応4年(1341)10月に、氏政は畑時能と共に鷹巣城で籠城していることが見えるが、この鷹巣城の落城で越前の南朝勢力は壊滅しており、亥山城もこれに先立って制圧されたようだ。

 このように、北朝方の斯波氏が越前を掌握した後、大野郡は高経の五男義種に任され、義種は加賀を始めとした各国の守護を務めるなど中央でも活躍し、有力庶家の大野斯波家の祖となった。また、義種は、大野郡においては治所として戌山城を築き、戌山城からほど近い亥山城には家臣の二宮氏を配している。義種が信濃守護であった時の守護代が二宮氏泰であり、亥山城の二宮氏は氏泰かその一族であったのだろう。

城跡にある日吉神社

 その後、二宮氏は大野郡の郡代的な役割を果たすようになるが、義種の孫持種と本家を継いだ持種の子義敏が重臣甲斐常治と対立した、長禄2年(1458)の長禄合戦で持種・義敏父子が敗れると、以降は甲斐氏に従ったようで、寛正5年(1464)には押領で持種に訴えられたことが見える。

 長禄合戦終結後の越前国内は、常治が戦後すぐに没したこともあり、結果的に常治に協力した朝倉英林孝景が影響力を強めた。孝景は、渋川義鏡の子で新たに守護となった斯波義廉を、常治の子敏光と共に支持し、応仁元年(1467)からの応仁の乱では、義廉や敏光と共に西軍に与したのだが、文明3年(1471)に、守護権の獲得を条件として東軍へと寝返ったのである。そして、越前国内の西軍を掃討して行き、翌年に敏光が越前に入国した後もその勢いは止まらず、甲斐氏方の拠点は次々と陥落し、二宮左近将監と弟の同駿河守が一族を集結させて籠もっていたこの亥山城が、甲斐氏方最後の拠点となった。

 だが、同じ東軍となったが故に将軍義政に牽制されて越前に口出しできなかった義敏が、朝倉氏の越前統一を防ごうと文明7年(1475)4月に亥山城へと入り、越前統一を目前にして、戦局は膠着状態に陥る。この時点で守護に復帰していた義敏と同じ陣営の孝景が、義敏を攻める大義名分を持つはずが無く、また、幾度もの退城要請も義敏には聞き入れられなかったのだ。

 やむを得ず、孝景は二宮兄弟を城外に誘い出して討ち破り、兄弟を含む多数の首級を挙げ、それでも開城しなかった城には同年末に総攻撃を掛け、城外に非難した義敏を京へ送ると共に二宮党を殲滅し、この亥山城落城をもって、遂に孝景は越前統一を成し遂げたのである。

神社拝殿の背後にある忠魂碑の辺りは微高地になっている

 越前統一の後、大野郡は、孝景の弟慈視院光玖が大野郡司となって統治し、光玖の死後は本家直轄となったが、英林孝景の3代後の同名の当主宗淳孝景の頃には、その弟景高が郡司となった。景高が孝景と対立して罷免された後、再び本家直轄を経て景高の子景鏡が郡司職を務めている。

 この過程において、大野郡司の居城は亥山城とされる場合もあるが、隣接する戌山城であったとされることもあり、やや混乱が見られるようだ。朝倉体制の確立後は大野郡での争乱は少なく、山城の戌山城では生活に不便であったと思われ、戌山城を詰として平時の居館は亥山城が使われたのかもしれない。

 戦国時代の朝倉家は、周辺諸国に出兵して他国の情勢に介入したほか、一乗谷城下に京からの文化人を迎えるなど、戦国大名としては強国であったが、元亀元年(1570)に浅井氏と共闘して信長と対立すると、調略などで次第に勢力を削られるようになった。

 そんな中、当主義景自らが出陣した天正元年(1573)の小谷城への救援において、前線の砦が陥落したことから義景は撤退を始めたため、機と見た織田軍に猛烈な追撃を受けてしまう。この戦いは刀根坂の戦いと呼ばれ、徹底した織田勢の追撃の前に有力な将兵が次々と討たれ、一乗谷に辿り着いた義景に従う者は近臣のみという状態であった。出兵を拒否して遠征に参加せず、一乗谷に義景を迎えた景鏡は、大野郡での再起を促し、義景の宿舎を大野の賢松寺としたのだが、結局は景鏡自身が賢松寺を囲み、義景を自害に追い込んで朝倉家は滅んだ。

山王公園に神社の石垣より古い時代の石垣があるが遺構かどうかは不明

 こうして、義景を討ち、信長への降伏が許された景鏡は、偏諱を受けて信鏡と名乗り、名字も土橋城や土橋庄から土橋を名乗った。だが、翌年には、義景を滅ぼしたことから越前一向一揆の標的となり、平泉寺と共に滅ぼされ、城には一揆の指導者であった杉浦玄任が入ったという。しかし、一時は越前を掌握した一向衆も内部対立を起こし、翌天正3年(1575)の織田軍の越前再侵攻の際にはあっけなく敗れ、大野郡は金森長近と原長頼に与えられた。そして亥山城には長頼が入ったようだが、領地確定までの一時的なもので、直後に長近によって大野城が築かれると、亥山城は廃城になったという。

 現在の亥山城は、日吉神社の境内となっており、城の遺構と見られるものは、かなり少ない。本殿裏の部分には、周囲と違う古い石垣があったが、これが遺構なのかどうかは判断できなかった。

 亥山という名から、かつては小山程度の山があったのかもしれないのだが、現在の周辺地形から考えると、かつては小山があったとしてもほぼ平城だろう。神社社殿の裏手の地形は台状で、亥山という小山を櫓台として使い、廃城後もそのまま使われて残ったようにも思えるが、実際はどうなのだろうか。また、解説等も、鳥居横の標柱ぐらいにしか城の説明が無く、今でも水を湛える境内脇の堀跡から城を連想できるぐらいで、想像力を逞しくしないと、城跡と言われてもピンと来ない程度の痕跡しか残っていない城である。

 

最終訪問日:2012/5/13

 

 

越前の歴史としては結構重要なお城なんですが、城としての痕跡は、残念ながら堀跡の池のみでした。

でも、堀の幅を見ると、割と大きな城だったんでしょうね。

訪れたのが休日の朝早くというのもあって、静けさが印象的な城跡でした。