Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

一乗谷朝倉氏遺跡

 戦国期に小京都と評された戦国大名越前朝倉氏の城下町の遺跡。

 朝倉氏は、一般には文明3年(1471)に、敏景とも呼ばれる英林孝景が一乗谷に城を築いたというが、それ以前にも攻防があったという記述が史料にあり、どうやら孝景以前から本拠としていたようだ。一説には、南北朝時代辺りから本拠にしていたという説もあるという。

 斯波氏の配下だった朝倉氏を、戦国大名として脱皮させたのは、この一乗谷創始説もある英林孝景であった。英林孝景は、ちょうど応仁の乱の時期の当主で、一乗谷は、京から避難してきた文化人によって大いに栄え、小京都と呼ばれたという。

 その後、氏景、貞景、曾祖父と同名の宗淳孝景、義景と、およそ100年に渡って繁栄が続いたが、天正元年(1573)に織田信長によって滅ぼされ、この時に一乗谷一帯にも火が放たれ、灰燼に帰してしまった。

 朝倉氏滅亡後、前波吉継から改名した桂田長俊が一乗谷を拠点として治めたのだが、翌同2年(1574)には富田長繁一向一揆に攻められて早々に滅び、新たに一向一揆を滅ぼして越前に入国した織田家柴田勝家は、翌年に現在の福井である北ノ庄を本拠にしたため、城下町は朝倉氏時代の痕跡を残したまま、遺跡となって埋もれたのである。

 城下の中心は、当然ながら領主であった朝倉氏の居館跡で、貴族趣味を持っていた最後の当主である義景が主に造成したと考えられているようだ。また、周辺には武家屋敷跡や諏訪館庭園などの当時の遺跡があり、城下の境を示す上木戸と下木戸の遺跡は、高土塁と石垣によって造られ、その規模は、長閑な農村風景の中にも過去の栄光を思い起こさせる。

 これらの痕跡は、昭和42年(1967)の庭園の発掘から始まる大規模な発掘調査によって概要が明らかになり、昭和46年(1971)には一乗谷城を含めた278haの範囲が国の特別史跡に指定された。現在では、武家屋敷や朝倉館の堀、土塁などが綺麗に復元され、戦国時代の城下町がどのようであったかを知るには充分な様子になっており、徒歩でぶらぶら散策するには絶好の史跡になっている。また、山上の一乗谷城も遺構をよく留めており、かなり体力を要するものの、散策すると森林浴にもなって気持ちが良かった。

 

最終訪問日:2001/9/14

 

 

戦国時代の状態が残っているのは珍しいですよね。

そのまま城として残った場合は、江戸時代に近世的に整備されてしまいますし。

条件は違いますが、ポンペイに近いのかもしれません。