Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

平泉寺白山神社

 平安時代から戦国時代末期まで、越前に絶大な勢力を誇った神社。

 祭神は伊奘冊尊(イザナミノミコト)で、配神として天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)と大己貴尊(大国主神)が祀られている。かつて栄え、神仏分離で廃されてしまった霊応山平泉寺における本尊は不明だが、付近に観音菩薩立像を祀るお堂もあることから、伊奘冊尊の本地仏である観世音菩薩だったのだろう。

 古代から、白山には山という自然物への素朴な山岳信仰があり、やがて泰澄大師によって修験道の霊峰として養老元年(717)に開かれた。伝承では、泰澄大師が白山山頂に向かう際、御手洗池を発見し、その傍らで祈祷をしたところ、白山の神が現れ、泰澄大師を山頂にまで導いたという。平泉寺白山神社は、その白山へ登る越前側の登山口にあり、加賀や美濃の登山口にある白山比咩神社や長滝白山神社とともに三馬場と呼ばれた。

 応徳元年(1084)からは、前述のように霊応山平泉寺として延暦寺の末寺となり、源平合戦の頃には木曽義仲との戦いに兵を出していることから、すでに大きな勢力を持っていたのだろう。室町時代には全盛期を迎え、平泉寺六千坊と称して数10万石の大名の動員兵力に相当する8千もの僧兵がいたというから、相当な宗教勢力であった。

 戦国時代には、越前を支配した朝倉氏と結んで勢力を保っていたが、天正元年(1573)に朝倉義景が信長に敗れると、朝倉一族で義景を裏切って自刃に追い込んだ景鏡に加担している。しかし、新たな支配体制への不満から一揆が発生すると、一揆勢は加賀の一向衆と結び、平泉寺も翌年に一向一揆によって攻められ、景鏡と共に滅んだ。この時、寺坊のことごとくが焼き払われてしまい、正に一瞬にしてその歴史は灰燼に帰したのである。

 その後、避難していた顕海が天正11年(1583)に戻って復興に取り組み、秀吉の支援を受けて再建されたが、室町時代の栄華には遠く及ばず、明治維新後の神仏分離によって仏号を廃し、今の平泉寺白山神社となった。ちなみに、越前海岸の名所である東尋坊の由来となった僧も、伝承ではこの平泉寺の僧兵であったとされる。

 現在は、境内とその周辺が白山平泉寺旧境内として国の史跡に指定され、発掘された寺坊跡やその石垣、石畳などは、僧兵を多く擁していた過去の荒々しい栄光を感じさせるが、かつての遺構の上に見事な苔が広く覆い被さり、その賑々しさや荒々しさが想像できないほど、静かな神社となっていた。旧境内の跡地は、現在の境内より10倍も広かったといい、その面でも、今の姿から往時を想像するのはちょっと難しい。

 

最終訪問日:2001/9/15

 

 

かつての歴史を知ってると、落差にびっくりしますが、今はとても静かな神社ですね。

栄華を極めた頃より今の方が、白山を厳かに信仰していた、源流と言うべき古代神道に近いのかもしれません。