詳細は不明だが、斯波高経が建武4年(1337)頃に構築した城で、連携して防衛する足羽七城のひとつに数えられる。読み方には諸説あるようだが、城のある黒丸町の読みがクロマルであり、越前朝倉氏創業の黒丸城と区別する為に大小を付けたと思われることから、当時の一般的な読みを考え、コクロマルと呼ぶのが正しいのではないだろうか。
斯波氏は、家祖が足利家の庶長子であったことから、足利一門の中でも特に家格の高い家で、当初は宗家と同じく足利姓を名乗り、一説には、室町時代に入るまで一門ではなく別家扱いであったといもいわれる。
鎌倉時代末期の当主は、この城を築城した高経で、尊氏の挙兵に従って六波羅探題を攻撃し、建武政権では越前の守護職を得た。これにより、北陸に足掛かりを得、尊氏が建武政権を離脱して以降は、北陸を中心に転戦することとなる。
南北朝時代初期の越前は、新田義貞が尊良親王と恒良親王を擁して金ヶ崎城に入城したため、両陣営が激しく争う地となり、高経らの北朝方が建武4年(1337)3月に金ヶ崎城を落とした後も、義貞が巻き返しを図っていた。城が築城された翌年の建武5年(1338)2月には、北朝方が押さえていた府中が落ち、畳み掛けるように、閏7月から南朝方は高経が籠る小黒丸城へ迫ったのである。
この一連の戦いの前、高経は長らく対立していた平泉寺と和解し、その宗徒を足羽七城のひとつ藤島城に拠らせていた。これが、この攻防の重要な鍵となる。
小黒丸城への攻撃は2日から始まったのだが、足羽七城は連携して激しく抗戦していたため、南朝方の総大将である新田義貞は、連携を断ち切るべく、同日夕刻に50騎ほどの手勢を率い、北朝方へ転じた衆徒の籠もる藤島城へ督戦に向かった。しかし、同時刻には、高経が藤島城への救援として、家臣の細川出羽守や鹿草公相、能登守護の吉見頼隆によって派遣されていた得江頼員ら、300騎の軍勢を向かわせていたのである。
こうして、両者は灯明寺畷で偶発的に遭遇して合戦となり、兵力も備えも劣っていた新田勢は壊滅、騎馬が水田に嵌った所を射られた義貞は落馬し、更に眉間に矢が命中したため、最期を悟って自刃した。
新田義貞の敗死により、南朝が逆襲しつつあった越前の情勢は一変し、一時的に南朝勢力は大きく衰えることとなる。しかし、義貞の弟脇屋義助が指揮を引き継ぎ、翌年7月には逆襲して小黒丸城を3方から攻めて落とした。
これにより、高経は加賀へ落ち、南朝方は大いに勢力を盛り返すのだが、南朝方の逆襲としてはここが頂点で、翌興国元年(1340)以降、加賀から再び戻った高経率いる北朝方が戦況を優勢に進め、8月にこの小黒丸城は陥落し、9月には南朝方は府中からも追い落とされてしまう。そして、翌年には高経によって越前の平定が成され、以降の越前は斯波家が代々守護を継承して行く。ただ、小黒丸城に関しては、これ以後は城名が歴史に登場することもなく、いつ廃城になったかも不明である。
城は、日野川と九頭竜川の合流点付近に築かれた平城で、川を外堀とし、湿地や東南の深田を防御力とする城だった。かつては、現在の城址碑のある場所より北50mの所に台地があり、そこに城址碑があったということから、水田や湿地帯の中に一部だけ乾いた場所があり、そこを城地としたものだろう。また、立地的に見て、府中を後背地とする日野川や九頭竜川の水運を掌握するのにも適地であることから、後々まで使われたと考えることもできるが、残念ながら前述のように詳細は不明である。
城の所在地は、国道416号線が九頭竜川を北へ越えていく手前の辺りで、城そのものの名を残す黒丸町という集落の端に城址碑が建てられ、また、その近くの白山神社にも城に言及した碑があった。だが、遺構としては、現在の城跡周辺一帯は全くの田園風景で、圃場整備がされた場所でもあるため、痕跡は全く見られず、従って縄張も残念ながらよく判っていない。整然と整備された田地と大きな堤防に、昔をただただ偲ぶばかりの城である。
最終訪問日:2018/5/27
朝倉氏ゆかりの大黒丸城を目指し、黒丸という地名を目指して走ったら、小黒丸城に着きました笑
黒丸町と黒丸城町。
まさか、そんな類似した地名が存在するとは・・・
小黒丸城も、南北朝史には欠かせない城ですから、結果オーライだったんですがね。