Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小丸城

小丸城址

 越前一向一揆討伐後の天正3年(1575)、越前の府中三人衆に数えられた佐々成政が、味真野の扇状台地に築いた城。

 越前は、戦国時代より朝倉氏の領国であったが、天正元年(1573)に信長によって滅ぼされた後、織田家臣となった朝倉旧臣に与えられた。しかし、翌年にはその旧臣同士に内訌が発生して土一揆を引き起こし、さらに加賀から一向宗の勢力が入って一向一揆化したことで、一時は加賀と同様に、越前一国も一向一揆がほぼ掌握するようになる。だが、このことで天正3年(1575)には織田軍の越前再侵攻を招き、組織的な抵抗がほとんど無いまま、越前一向一揆はすぐに瓦解した。

小丸城説明板

 一向一揆討伐後、越前一国は柴田勝家の管轄となり、その与力となった前田利家、不破光治と同じく成政にも恩賞として領地が与えられ、その治所となる居城として築かれたのが小丸城である。現在は開拓されて一面の田園となっているが、当時は50m四方の本丸を中心に、二ノ丸、三ノ丸が周りを囲み、その大きさは東西300m、南北450mの規模で、郭を区切る10~30m幅の堀があったという。

 越前の国府は今のJR武生駅周辺で、成政は、利家や光治と共に、前述のように府中三人衆と呼ばれていたが、在城期間は短く、天正9年(1581)には越中富山に移っている。しかも、その前年から越中掃討に駆り出されているため、実質的に築城に携わった時間は短かったようだ。このことから、未完成のまま移封で廃城になったという説が有力である。

小丸城本丸

 現在、城跡として残っているのは本丸部分で、高さ約7mの高台であり、その周囲には堀だったと一見して判る地形が残っていた。本丸の一部には城門の石垣が残っているが、その上には多聞櫓があったのか、それともただ塀を渡していただけなのか、埋門の形となっており、上に大きな一枚岩が石橋のように架けられている。通路の幅から考えると、大手にしては狭過ぎることから搦手門か通用門だったのだろうか。大手門でないとすれば、塀が渡されただけの埋門の可能性が高そうである。

 地図を見ると、東西に鞍谷川と浅水川が流れており、これを天然の堀として活用していたと思われ、西にある街道や、城域が扇状地の末端であることを考えると、大手は北か西に向いていたのではないだろうか。本丸跡からは周囲が見渡せるが、全くの平地という地形を考えると、戦時の防御力よりも平時の城下町の発展性を考えた城だったようだ。

埋門になっている石垣の遺構

 城は北陸道武生I.C.の東側に広がる田園地帯にあり、杜のようになった城跡は遠目でも判りやすい。また、交通量のある道から少し離れていることもあってか非常に静かで、落ち着いて散策することができる。城跡付近には、大河ドラマ利家とまつ」放映時に整備されたのか、案内板が多く、史蹟巡りの道順なども表示してあった。

 ちなみに、門徒が後世に伝えようとして、一揆に対する信長の苛烈な処置の様子を刻み付けた文字瓦がこの城跡から出土したことでも有名で、文字瓦は越前の里郷土資料館に収蔵されている。

本丸下の内堀跡の低地

 

最終訪問日:2010/10/11

 

 

武生I.C.から真っすぐ東に行くと、小丸城の案内がポンと出てくるんですが、それ以上の案内は無いので、1度目の訪問では辿り着けませんでした。

2度目は予習もばっちりで無事到着。

気付けば、案内の出ていた場所は真柄町なんですよね。

朝倉重臣真柄氏と言えば巨大な野太刀。

今はもう戦国の面影は皆無ですが、戦国にゆかりのある場所でした。