Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

田辺城 (紀伊田辺城)

田辺城水門跡

 正式には田辺城というが、他にも田辺城があるため、紀伊田辺城や錦水城とも呼ばれる。錦水城の名から分かるように、川と海に面した水城であった。

 戦国時代の紀伊は、畠山氏が守護を務め、その影響力は戦国時代後期まである程度は維持されていたが、畿内に注力する畠山氏と紀伊の国衆との結びつきは緩やかで、畠山家中の内訌が長期間に渡ったこともあって領国化が進まず、独立的な国衆が多かったようだ。

 田辺に関しての明確な事績はあまり無いのだが、同じ日高郡には、紀伊の中で最も勢力を持っていた国衆である湯川氏がおり、その発祥地がこの田辺の泊山城であったという。湯川氏は、後に御坊の小松原に進出して湯川衆という一団を率い、泊山城も一族が城主を務めたようだ。天正13年(1585)の秀吉による紀伊征伐の際には、湯川直春が御坊の亀山城を退去して泊山城の叔父教春を頼ったが、泊山城も落城したという。そして、秀吉の家臣であった杉若無心が、新たに紀伊を与えられた羽柴秀長の家臣として田辺周辺1万9千石を領した。

 無心は、最初は泊山城に入城し、その治所としたが、天正18年(1590)には上野山城を築いて移っている。その跡を継いだ子氏宗は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属して大津城の攻撃に参加するなどしたため、戦後に改易され、杉若氏は大名としては滅んだ。

 その後、紀伊浅野幸長に与えられ、和歌山城に入城し、幸長は田辺に浅野氏重を配した。氏重は、左衛門佐という官途で呼ばれることが多く、氏定や知近、良重という諱も伝わる浅野家の重臣で、最初は田辺城の対岸の位置に洲崎城を築いて入城したようだが、慶長11年(1606)に会津川河口に新たに城を築いて移り、同時に城下町の整備を行ったという。この城は湊城と呼ばれ、後の一国一城令で城は廃されたものの、現在の田辺市街はこの時の城下町を下敷きとして発展することになる。

 元和5年(1619)、福島正則が安芸を没収されたことにより、浅野氏が広島へ移り、代わって家康の十男頼宣が和歌山に入部した。この時、田辺には付家老であった安藤直次が3万8千石余で封じられ、廃城となっていた湊城を修築すると共に拡張し、現在残っている田辺城を築くのである。

 だが、安藤氏は付家老であるが故に、そのほとんどを和歌山城で過ごし、城は家臣の安藤小兵衛が代々城代を務めて預かっていたという。また、安藤氏は維新後に紀伊田辺藩として正式に立藩したが、すぐに廃藩置県となり、明治3年(1870)には破却が始まったようで、同6年(1873)の廃城令で正式に廃城となった。

 城は、公的には館と称していた程度であり、規模としては大きなものではない。西の会津川を天然の堀とし、南を海に守られた平城で、北と東にも堀を穿ってはいるが、あくまで居館形式に近い政庁機能を重視した城であったため、防御力はほとんど期待できなかったのではないだろうか。

 現在、唯一の遺構として、船で直接城に入れるように会津川と繋がっていた水門という名の埋門が残っており、錦水城の名の通り、白壁が川面に反射して美しかったであろう往時を偲ぶことができる。山が海に迫り、貧弱な陸路よりも圧倒的に海路が発達していた紀南の城らしい部分で、最も特徴があった部分が残っているのは幸いなのかもしれない。

 

最終訪問日:2003/4/27

 

 

訪れたのが朝早くというのもあって、城跡や旧城下の街並みには清々しい空気が漂っていました。

また、埋門で繋がる会津川の存在感も、往時を連想できて良かったですね。