Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

芥川城

芥川城址

 史料上、芥川城として出てくるのは、この城と山側にあった芥川山城の両方であり、どちらを指しているのか、注意して見る必要がある。

 芥川城を築城したのは芥川氏で、芥川氏は出自を平氏としているものの、来歴の詳細は不明という。「高槻市史」では、芥川氏は非開発領主型の武士としており、城のすぐ横を西国街道が通っていることや、付近の郡家という地名から解るように古くから栄えた場所であることから、平安時代からあった芥川宿を基盤とする新興勢力だったと見られる。鎌倉時代末期には、そのような、いわゆる悪党と呼ばれる新興勢力が各地に台頭してくるのだが、京に近い経済先進地帯らしく、他の地域よりもかなり早い時期に興隆した同系統の勢力だったようだ。また、西国街道が城域推定地で鈎状に曲げられていることから、勢力拡大に伴って居館から出発した城は次第に拡張され、その煽りで街道が曲げられたのかもしれない。

 芥川氏の史料上の初見は弘安7年(1284)で、芥川景信なる人物が叡尊を師として出家し、慈願と名乗ったことが見える。その後、鎌倉時代末期から勢力を拡大させ、北摂の有力な豪族であった真上氏と同化し、有力な摂津国人衆の一家となっていった。

 室町時代に入ると、摂津の守護を細川氏が務めていたことから、細川軍の一員としての活動が見られる。しかし、文明11年(1479)から始まる摂津国一揆に加担していたと見られ、この一揆細川氏によって鎮圧されたことから、以降は没落してしまったようだ。

 その後、延徳2年(1490)に細川政元が芥川にて新たに建物を構えたことが見え、これが摂津国一揆鎮圧後の芥川城の再築であったともいわれる。以後、上郡と呼ばれた摂津北東部の京兆細川家の拠点として使われ、後に能勢氏が城を預かったようだ。そして、能勢頼則が永正13年(1516)に芥川山城を築城すると次第に機能はそちらに集約され、芥川城は平時の居館である里城として使われたともいうが、詳細は不明で、廃された時期もはっきりしていない。

 現在の城跡は、都市化によって遺構の類が全く無くなっており、殿町の地名と西国街道の曲げられた部分が城域を推定させるのみである。殿町の一角に城址碑のみがあるが、周囲は非常に細い路地であるので、徒歩での散策がお勧めだ。

 

最終訪問日:2018/3/24

 

 

現地は小さな城址碑だけの城ですが、地図を見ると、西国街道城址碑のある場所の東で南に無理やり曲げられているんですよね。

そこから浮かぶのは、方形の城郭の輪郭・・・

地図から想像するのが楽しいお城ですね。