Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

岡山城 (水茎岡山城)

湖岸道路沿いにある水茎岡山城址碑

 水茎岡山城は、水茎内湖に存在していた浮島のような丘陵へ、南北朝時代に湖上交通の押さえとして六角氏が築いた城であった。当時は岡山城や尾山城と呼ばれ、今の水茎岡山城の名は、後世に他の岡山城との区別のために付けられたものだろう。水茎に関しては、周辺地名の読みは内湖の名と同じスイケイであるが、万葉集古今和歌集にちなむ水茎岡からの派生と思われるミズグキという呼び方もあり、どちらでも不正解ではないようだ。ちなみに、「水茎の」は岡に繋がる枕詞で、枕詞で使う場合はミズクキと濁らない。

 戦国時代も中期に差し掛かってくる永正4年(1507)、管領で半将軍とまで呼ばれた実力者細川政元が暗殺され、その家督争いによって中央政界は混乱に陥る。翌年、政元に追放されていた前将軍足利義材(義稙)が、その混乱を衝いて中国の実力者大内氏の後援で京に進攻し、第11代将軍足利義澄は近江へと逃れた。この義澄を迎えたのが、5年前の文亀2年(1502)の第1次伊庭の乱において、主君六角高頼と激しく争った守護代伊庭貞隆で、これにより、義材に味方する高頼との対立が再燃することとなる。

 この争乱の際、城は、貞隆の家臣で周辺の領主であった九里(クノリ)信隆によって義澄を迎えるために本格的に築き直されたといい、当時は岡山城とも、岡山御所、近江御所とも呼ばれた。この城で信隆は、幕府軍や義材側に立つ六角勢の攻撃を、寡兵ながら幾度も撃退している。

 永正8年(1511)に義澄が死没した後、同11年(1514)には第2次伊庭の乱が勃発し、貞隆とその子貞説は江北で京極氏を凌ごうとしていた浅井氏の支援を受け、6年に渡って高頼と戦った。だが、前回の時の細川氏のような巨大勢力の後援がなかったため、永正17年(1520)7月、高頼の次男定頼の攻囲により、数百ともいわれる餓死者を出して岡山城は陥落している。その後、大永5年(1525)にも、この城で伊庭貞説は九里氏の残党と共に六角氏に背くが、再び討伐されて落城し、両氏は滅亡、岡山城も廃城となった。

 城の周囲の平地は後世に干拓された土地で、当時は琵琶湖と繋がった内湖や低湿地の中に盛り上がった、島のような地形であったらしい。近くの安土城も、築城当時の周辺の地形は同じようなものであり、岡山城も、遠くからは浮き舟のように見えた要害だったのだろう。

 城は、丘陵を二分する湖岸道路を挟んだ2つの山と、それに連なる峰を加えた3つの山で、ひとつの城を成していたらしい。碑の辺りには目立った遺構は何も無いが、主郭があったのは碑から湖岸道路を挟んだ向かい側の尾山で、当時の城の主要部には石垣も用いられていたという。

 現在、湖側の山の麓には城址碑が建てられており、碑のすぐ横には2つの小山の間を縫うように湖岸道路が通っているが、湖岸道路からこの城址碑が見えるのは一瞬でしかなく、見落としやすい。訪れた時は、碑の周辺を散策してみたが、残念ながら入山する道が分からなかった。しかし、逆に考えれば、開発を受けたような形跡が山にないとも言え、山上には当時の形をよく残した何らかの遺構が残っているのではないだろうか。

 

最終訪問日:2001/8/31

 

 

湖岸道路を気持ちよく走っていた際に、城センサーが鋭く反応して発見した城です。

我ながら高感度!

改めて訪れてみると、城址碑は非常に立派だったんですけど、肝心の遺構へはアクセスしようがなかったんですよね。

発見の時はめっちゃテンション上がったのに・・・