Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

岡山城 (水口岡山城)

公園入口付近の車道脇にある城址

 往時は水口城と呼ばれていたが、後に同名の城が西に築城された為、水口岡山城、もしくは水口古城と呼ばれる。また、現地の城址碑には単に岡山城とだけあった。

 天正13年(1585)、八幡に入城した羽柴秀次の補佐役として中村一氏が水口を与えられ、秀吉の命により築城したのが、この水口岡山城である。以後、東国から京へ繋がる東海道を扼す城として、天正18年(1590)に増田長盛、文禄4年(1595)には長束正家が城主に据えられ、いわゆる近江閥にとっての出世城となった。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、正家は西軍に与して伊勢攻略戦を毛利秀元らと共に戦い、本戦では南宮山東麓に陣を敷いたのだが、戦場との間に陣取っていた吉川広家の軍が動かず、結局、戦闘に参加できないまま、西軍の壊滅によって水口城へ退却せざるを得ない状況へと追い込まれてしまう。そして、山岡道阿弥の追撃を受けつつ入城には成功するが、進軍してきた池田長吉と亀井茲矩の軍に城を包囲されると、正家は本領安堵を条件に開城降伏したものの、結局は欺かれ、切腹させられてしまった。

 城は、この開城の後、長吉にしばらく預けられたが、同年中には廃城となり、これ以降、水口は幕府直轄地の宿場町として発展することとなる。再び城下町となるのは、寛永11年(1634)の将軍家光の宿泊所としての水口城築城を経て、天和2年(1682)に水口藩が成立する約80年後のことであった。

 この水口に関しては、有名な逸話がある。それは、石田三成が水口に4万石を与えられ、猛将として名高かった島左近清興(勝猛)を知行の半分の2万石で迎えたという話だ。

 しかし、三成が水口を領したとすれば、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦後から、一氏がこの城を築城する以前の2年間の話となるが、賤ヶ岳の合戦で功を挙げた七本槍の中で、戦後に最も知行を与えられた福島正則加藤清正が5千石である。秀吉子飼の武将のトップクラスでこの程度であるならば、同13年(1585)の四国征伐や同15年(1587)の九州征伐という大規模戦の後方支援で頭角を現す文治派の三成が、賤ヶ岳の合戦後の2年間でそれほどの知行になるとは考えにくい。また、清興が筒井家を辞したのは同16年(1588)頃で、こちらからも逸話が否定される。

 恐らくは、佐和山城主時代の逸話に昔の石高が混じったか、小姓時代の渡辺勘兵衛を召し抱えた際の逸話から創られた話なのだろう。また、水口が領地として選ばれたのも、近江閥の文官型武将の出世城であったからなのかもしれない。

 城のある大岡山は、お椀型の山のため、麓や中腹が急峻な割に山上の郭は広く取ることが可能で、山頂の本丸から北西に西ノ丸を置き、南東方向へ続く峰に、やや弧を描きながら順に二ノ丸、三ノ丸と郭を配し、それぞれの郭はなかなか広い。これら主郭を含め大きく6つに区画された郭の間には、堀切なども残っており、新しい水口城造営の際に石垣などが持ち出されたことを除けば、保存状態はなかなか良好と言えるだろうか。

 城跡には、前述のように資材の持ち出しがあったため、殆ど石垣は見当たらないが、当時は総石垣造りの近世山城であったとされ、現在でも僅かながらその一部が残っている。現在は公園として整備されてはいるが、郭間の勾配を利用した滑り台などがあり、史跡公園というよりは都市公園といった趣だった。ただ、遺構が比較的良好に残っているだけに、城跡を利用した公園としては、少し惜しい感じではある。

 

最終訪問日:2001/8/27

 

 

公園の入口には、いかにも頂上まで上って行けそうな車道があるんですが、途中で進入禁止となっていました。

城跡自体は、縄張が明確に残っているのと、山の形が山城に向いた形をしているので、散策すると非常に愉しいですね。

街道を押さえる立地といい、そりゃ城を築くわ!って言いたくなるお城です。