Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

都道府県別-福井

坂井市丸岡歴史民俗資料館

かつての丸岡城の城内に建てられている、旧丸岡町についての歴史民俗資料館。 開館は、丸岡城築城400年にあたる昭和53年(1978)で、当時は丸岡町歴史民俗資料館という名だった。現在は、平成18年(2006)の市町村合併で丸岡町から坂井市へと市町村が変わってお…

北の庄城址資料館

北ノ庄城跡にある柴田神社に隣接して建てられている資料館。 公園の名前は、古い地図を見ると柴田公園と書かれていたりするが、福井市のホームページによると、北の庄城址・柴田公園というのが正式名称のようだ。この公園は、平成16年(2004)4月4日にバリアフ…

勝山城博物館

勝山城という名が冠されているが、戦国時代の築城から廃城時期を挟んで江戸時代に存在していた本当の勝山城は、勝山市民会館辺りにあり、今では残念ながら跡形も無い。だが、市民からの城の再建の願いもあり、郊外に豪壮な天守閣を模して建てられたのがこの…

一乗谷朝倉氏遺跡資料館

朝倉氏5代100年の栄華の跡である、特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡に関する資料館で、昭和56年(1981)8月20日の開館。建物自体は、令和4年(2022)10年1日に新しい本館が開館して旧本館は分館となり、展示内容も一新された。 一乗谷が城下町として見えるのは、かつて…

明境洞

日本海まで見通すことができる明境洞 陸地が海へと落ち込み、岩がそそり立つ海岸線が続くというのが、丹後半島や若狭に見られるリアス式海岸だが、その一部が海水の浸食によって洞窟のようになったのが明鏡洞で、高浜城跡のすぐ下の小さな入り江から、明境洞…

三方湖

日本海に接して並んでいる、三方五湖の中の代表格の湖。ただし、三方五胡での最大の湖は水月湖で、三方湖はそれに次ぐ2番目である。 三方五胡は、三方湖を筆頭に水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖から成り、水質や水深の違いからそれぞれが違う色に見え、五色…

東尋坊

越前のリアス式海岸を象徴するような、最大25mの切り立った崖が1km以上に渡って連続している名勝で、国の名勝と天然記念物に指定されている。 この東尋坊の名前の由来は、いくつかの説があるのだが、最も有名なものは、中世に8千人もの僧兵を擁していた巨刹…

一乗谷朝倉氏遺跡

戦国期に小京都と評された戦国大名越前朝倉氏の城下町の遺跡。 朝倉氏は、一般には文明3年(1471)に、敏景とも呼ばれる英林孝景が一乗谷に城を築いたというが、それ以前にも攻防があったという記述が史料にあり、どうやら孝景以前から本拠としていたようだ。…

平泉寺白山神社

平安時代から戦国時代末期まで、越前に絶大な勢力を誇った神社。 祭神は伊奘冊尊(イザナミノミコト)で、配神として天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)と大己貴尊(大国主神)が祀られている。かつて栄え、神仏分離で廃されてしまった霊応山平泉寺における本…

気比神宮

越前国一宮で、延喜式にも名神大社として記載されている由緒ある神社。旧社格は官幣大社で、神社本庁の定めたいわゆる別表神社のひとつである。気比の字は、正式には気を旧字体で書く。 主祭神は、天筒の峯より境内の土公の場所に降臨したという伝承を持つ伊…

七間朝市

七間朝市の様子 大野市の城下町の中心、寺院が建ち並んで風情のある寺町の南西側の七間通りで行われる朝市。今では朝市に合わせ、通りも七間朝市通りという名になっている。 七間朝市が始まったのは、戦国時代という。越前の国主であった朝倉氏が信長によっ…

九頭竜スキー場

福井県を横断し、三国港まで流れる大河九頭竜川の上流、九頭竜ダムによって作られた九頭竜湖のすぐ近くにあるスキー場で、昭和47年(1972)12月のオープン。スキー場には珍しく、大野市による公営である。 スキー場の大きさ自体はそれほど大きくはないが、大き…

敦賀温泉

敦賀市内にある、昔ながらの銭湯。公式な情報として確認したものではないが、明治38年(1905)の創業らしいので、かなりの歴史がある銭湯ということになる。 敦賀市内の中心部、国道8号線と笙の川の間に、敦賀港に向かって南北に走る比較的大きな道路があるが…

村岡山城

大日山系の残雪を背景に村岡山城本丸に建つ忠魂碑と左手の櫓台 平泉寺との抗争で、一向一揆側が本拠とした山城。 天正元年(1573)の朝倉氏滅亡の際、朝倉一門で大野郡司の重職にありながら当主義景を裏切って自刃に追い込んだ朝倉景鏡は、信長に臣従して土橋…

丸岡城

天正3年(1575)、信長は越前の一向一揆を討伐するため、大軍を派遣して組織的な抵抗を瞬く間に崩壊させ、この城の東方4kmにあって一向一揆の本陣が置かれていた豊原寺も制圧し、寺坊を焼き払った。こうして越前を平定した信長は、これを重臣柴田勝家に与え、…

福井城

福井城本丸瓦御門付近の石垣と内堀 福井城の前身である北ノ庄城は、北朝方であった斯波高経が建武5年(1338)に構えた足羽七城のひとつであったとも、室町時代の朝倉家当主である教景の弟頼景が築城した城ともいわれ、戦国時代には本拠一乗谷城の北の支城であ…

疋壇城

疋壇城址碑と説明板 ヒキタと読み、疋田城とも書かれる。また、別名として塩山城ともいう。 疋田の地は、古代三関のひとつ、愛発関の比定地とする説が有力で、古代から北陸へ向かう際の重要な場所であった。時代が下った応仁の乱の頃、文明年間(1469-87)に疋…

燧ヶ城

交通の要衝を押さえる機能を持った山城で、火打ヶ城とも書かれる。 城のある場所は、北国街道と木ノ芽峠へ通じる北陸道、そして山中峠への道が交わる要衝で、杣山城や金ヶ崎城と並んで北陸の重要な玄関口であったため、古くから城が造られていた。 「源平盛…

後瀬山城

大永2年(1522)、若狭守護武田元光により築城された、若狭武田氏の居城の山城。ノチセヤマと読む。 若狭の武田氏は、清和源氏である甲斐源氏嫡流武田氏の庶流である。承久3年(1221)の承久の乱の功で、甲斐守護武田信光は安芸国の守護職も得、南北朝時代の当主…

天筒山城

天筒山城南西側の下段から本丸と展望台 敦賀郡の首城であった金ヶ崎城から峰続きの南東側にあった城で、金ヶ崎城と一体的に機能していた山城。ちなみに、若狭武田氏関係や信長関係の史料には手筒山城と書かれている。 海岸から北西方向へ向かって海に突き出…

敦賀城

天正11年(1583)に蜂屋頼隆が築城した平城で、三層の天守があったという。 室町時代には、越前守護代であった甲斐氏の拠点が敦賀城と呼ばれていたようだが、これは一般にはこの付近にあった城ではなく、金ヶ崎城のこととされている。 敦賀城を築城した蜂屋頼…

高浜城

高浜城本丸跡の城址碑 永禄8年(1565)に、若狭守護武田家の有力家臣であった逸見昌経が築城したと伝えられる平山城の海城。 逸見氏は、主君である若狭守護武田氏と同じ甲斐源氏の出で、武田氏初代信義の兄逸見光長が祖という。ただ、信義の系からも逸見姓を名…

杣山城

杣山城本丸と城址碑 北陸道を睨む杣山にあった城で、豪族瓜生氏の居城だが、伝承では大和源氏の祖となった源頼親が平安時代中期に築いたともいわれる。 もともとは、瓜生氏入部以前の杣山一帯には3千もの寺坊があり、地名も飽和庄と呼ばれていたようだが、後…

砕導山城

砕導山城から高浜城と明境洞を望む 若狭守護武田家に仕えた重臣、逸見氏の居城。城の名は、サイチヤマと読む。 逸見氏は、甲斐源氏の一流である。甲斐源氏は、有名な新羅三郎義光を祖とし、その三男義清が、常陸国那珂郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれ、勢…

小丸城

小丸城址碑 越前一向一揆討伐後の天正3年(1575)、越前の府中三人衆に数えられた佐々成政が、味真野の扇状台地に築いた城。 越前は、戦国時代より朝倉氏の領国であったが、天正元年(1573)に信長によって滅ぼされた後、織田家臣となった朝倉旧臣に与えられた。…

小黒丸城

黒丸町の集落の中に建つ城址碑 詳細は不明だが、斯波高経が建武4年(1337)頃に構築した城で、連携して防衛する足羽七城のひとつに数えられる。読み方には諸説あるようだが、城のある黒丸町の読みがクロマルであり、越前朝倉氏創業の黒丸城と区別する為に大小…

玄蕃尾城

玄蕃尾城解説板 柴田勝家が、賤ヶ岳の合戦の際に本陣を置いた城で、内中尾山城ともいう。区分としては山城にはなるのだが、城内の高低はかなり少ない平坦な城である。 天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で信長が斃れた後、同月27日の清州会議で秀吉と勝家が…

北ノ庄城

越前一向一揆討伐後、信長の命で家臣の柴田勝家が越前支配の拠点として築いた城。 北ノ庄城の前身としては、越前朝倉氏の庶流が拠点としていた同名の城があった。また、さらに遡った南北朝時代の建武5年(1338)に、斯波高経が南朝方に対抗して足羽七城という…

金ヶ崎城

金ヶ崎城跡周辺の案内図 敦賀湾に突き出た半島の小山に位置する、三方を海に囲まれた海城の山城。読みは、城跡を境内地とする金ヶ崎宮がカネガサキと呼ばれていることから、カネガサキが正しいのだろう。 築城時期は古く、源平合戦の頃に平通盛が木曽義仲に…

勝山城 (越前)

九頭竜川の河岸段丘上にあった城で、柴田勝家の一族である柴田義宣の養子勝安が、一向一揆討伐後の天正8年(1580)に築いた城。 勝山市街には、戦国時代に毛屋と袋田という2つの集落があり、袋田の集落に築かれた勝山城は袋田城とも呼ばれる。袋田には、義宣の…