Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

村岡山城

大日山系の残雪を背景に村岡山城本丸に建つ忠魂碑と左手の櫓台

 平泉寺との抗争で、一向一揆側が本拠とした山城。

 天正元年(1573)の朝倉氏滅亡の際、朝倉一門で大野郡司の重職にありながら当主義景を裏切って自刃に追い込んだ朝倉景鏡は、信長に臣従して土橋信鏡と名を改め、本領を安堵された。

 だが、越前国内は、富田長繁土一揆を起こして桂田長俊を滅ぼすなど、朝倉旧臣による割拠状態へと進展して混迷を極め、さらには長繁が魚住景固を暗殺したことから、土一揆と長繁も対立するようになる。そして、土一揆側がその大将として本願寺の坊官七里頼周を迎えたことから、土一揆一向一揆へとその性格を変えていく。

 このような情勢の中、義景を滅ぼした張本人で、かつ信長の代官になった信鏡は、信長を共通の敵として朝倉氏と結んでいた本願寺にとっては仇敵のような存在であり、身の危険を感じた信鏡は、越前で大きな勢力を誇っていた平泉寺へと避難した。

岡山城縄張図

 すると、翌同2年(1574)に法主顕如より平泉寺追討の命が下り、一向宗徒は2月に戦陣を開いて激しく対立し、4月14日には平泉寺の監視所があった村岡山を占拠して陣城を築いたのである。ただ、この頃の城は前線の砦的な役割であったため、素朴な構造であったようだ。

 この一揆側の動きに対し、寺の目と鼻の先に陣を置かれては一大事と、平泉寺は景鏡に8千余の僧兵を付けて翌日に村岡山城を攻撃させたのだが、一揆側の戦意は高く、城を守りつつ七山家の衆徒が中心となり、北回りの間道伝いで三頭山を越えて平泉寺の寺坊を焼き討ちにするという逆襲策に出た。

 この一揆側の奇襲は大当たりで、ほとんどの寺衆は村岡山城攻撃に出ていて寺には従者や稚児しかおらず、寺坊は易々と衆徒側の手に落ち、火が掛けられてしまう。攻めているつもりの寺衆は、この煙火で逆に背後の平泉寺が攻められている事を悟って動揺し、急いで寺に戻ろうとしたものの、機を捉えた一揆軍の追撃で多数が討たれ、勝敗はあっけなく決した。

岡山城解説板

 こうして寺衆が討たれ、寺坊も灰燼に帰した平泉寺は、壊滅と言えるほど著しく衰退したのである。この時、一揆側は勝利を祝って村岡山を勝山と改名し、これが現在の勝山の地名の元となった。

 この戦いの後、越前は加賀と同様に一向衆が支配するようになったのだが、その政治が坊官の私利私欲に傾いていたため、すぐに内部分裂を始めてしまう。これを機と捉えた信長が、天正3年(1575)に3万という軍勢を率いて越前に侵攻すると、統制の取れなくなっていた一揆側はあっけなく敗北し、越前は再び織田氏の支配するところとなった。

 信長は、譜代の猛将柴田勝家に越前一国を与え、勝家は村岡山城に一門の柴田義宣を置いたが、翌年5月の残党狩りの際のものと思われる様子が小丸城の瓦文字として出土したように、越前国内では小規模な一揆残党の掃討戦がしばらく続いたようだ。村岡山城近辺でも、加賀と連絡の取れる七山家地域の衆徒は頑強で、谷城などに籠って抵抗を続けており、義宣はこれを掃討しようとしたが、天正5年(1577)に谷城での攻防で義宣は討死してしまう。そこで勝家は、義宣の跡を養子柴田勝安(勝政)に継がせ、勝安は翌年になってようやく一揆方を制圧している。

本丸の切岸と二ノ丸との間の空堀

 勝安は、支配拠点として村岡山城を使ったが、典型的な山城は平時の拠点としては不便だったのだろう。一揆制圧から2年後の天正8年(1580)、九頭竜川河岸段丘上にあった支城富田城のすぐ横に新たに城を築き、一揆が名付けた勝山から名前を取って勝山城と名付け、本拠としての村岡山城はこうして早々に廃城となった。

 城は、勝山盆地の北東端、暮見川と浄土寺川に挟まれた独立峰に築かれ、最高部に櫓台を持つ方形の本丸を置き、空堀を挟んでそれを南西から東に掛けて本丸を囲うように3つの郭で構成された次段を設け、北西の峰には堀切と段郭を重ねている。構造として複雑なのは次段周辺で、土塁を組み合わせた搦手の虎口や畝状竪堀など、見るべき箇所が多い。北西峰は一転して素朴な感じで、一揆勢が構築したものをあまり手も入れずに流用したようだ。

二ノ丸に明確に残る空堀

 発掘調査以前は、一揆が構築使用した簡素な城であったと思われていたが、平泉寺の協力者であった朝倉氏系の築城術が認められたことから、現在は築城時期は不明ながら、一向勢力が拠点とする前から砦として平泉寺が運用していたと推定されている。また、主郭部分は柴田系の築城術が見られ、方形の郭や堀切の穿ち方など、後に賤ヶ岳の戦いの際に改修された玄蕃尾城とよく似ており、特徴が解り易かった。

 城は、村岡山城という名前だが、地図には標高301mの御立山とあり、村岡小学校裏手の村岡神社から登山道が出ている。林道のような広い道から地蔵のある九十九折の細い道に入り、郭跡かと思うような途中の尾根筋を越えて登って行くと、本丸次段に出ることができた。主郭部は整備が行き届き、下草や余分な木が刈られており、散策しやすく眺望も開けている。ただ、その分、日差しを避ける所が少なく、日差しが強い季節にはやや厳しいかもしれない。

二ノ丸東側に残る畝状竪堀

 

最終訪問日:2012/5/13

 

 

1度目は時間の関係で登れませんでしたが、2度目で登城完遂です。

登城した時は、櫓台から見える大日山系の残雪と新緑が見事としか言いようが無いコントラストで、思わず声を上げてしまうほど壮大な景色でした。