Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大聖寺城

大聖寺城縄張図

 大聖寺城の築城時期や築城者ははっきりしていないが、もともとは大聖寺という白山五院に数えられた寺があり、その寺坊跡を城郭に流用したと考えられる。

 具体的には、在地豪族であった狩野氏が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて築いたといわれ、太平記に、中先代の乱に呼応して挙兵した北条一族の名越時兼が、この城を攻めて山岸や上木といった狩野一党に敗れて討死したとあることから、建武2年(1335)には存在していたのは確かなようだ。

 また、建武4年(1337)には、近隣の福田荘福田本郷の地頭である狩野義茂が南朝方に与し、越前の細呂木城を拠点にして、津葉清文の籠る大聖寺城を攻略したことが同じく太平記に見える。義茂は、後に北朝に転じて領地を維持したようで、史料的な裏付けは無いが、この大聖寺城を居城としていた可能性が高い。

 その後の狩野氏は、室町時代は幕府の奉公衆として、後には実質的に守護大名富樫氏の家臣として活動していたようだが、富樫政親が一向衆に敗れて衆徒と土豪による自治が成立した長享2年(1488)かそれ以前に、加賀の歴史から姿を消している。一説に、越中国氷見に落ち、鞍骨山城、あるいは飯久保城を本拠にしたという。

 加賀が百姓の持ちたる国となって以降は、一向衆への圧力を強める朝倉氏に対抗するため、この大聖寺城が南加賀一向衆の重要拠点となったが、弘治元年(1555)に越前から侵入した朝倉宗滴はこの城を攻略し、逆に一向衆討伐の拠点とした。

 その後、対信長包囲網形成のため、朝倉氏と本願寺は和睦し、その時に境の城であった大聖寺城は、両者の攻防の的であったこともあり、一旦は廃されたようだ。

 朝倉家を滅ぼした織田氏の勢力が、天正3年(1575)頃に南加賀へ及ぶと、梁田広正が城主となって整備し、加賀平定の拠点として使われたが、一向衆は根強い抵抗を続け、しばしば大聖寺城も攻撃を受けたという。翌年には、討伐軍の主体が広正から織田家随一の猛将柴田勝家に代わったが、同5年(1577)に能登七尾城攻略の余勢を駆って南下した上杉謙信手取川で戦って大敗し、大聖寺城まで奪われるなど勝家も苦しみ、同8年(1580)になってようやく加賀を平定している。

 織田氏による加賀平定後の大聖寺城は、勝家の寄騎となっていた拝郷家嘉に与えられ、天正11年(1583)に賤ヶ岳の合戦で敗れた勝家が北ノ庄城で滅ぶと、越前や加賀などを与えられた丹羽長秀の家臣溝口秀勝が城主となった。

 同13年(1585)の長秀の没後は、秀吉の直臣となった秀勝が引き続き領し、後に寄親である堀氏の転封に伴って越後新発田へ移ったため、慶長3年(1598)に代わって山口宗永が入封している。だが宗永は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に与したため、東軍となった前田利長に攻撃されて大聖寺城は落城し、宗永は自刃、子修弘は討死した。

 戦後、加賀は利長の領国となり、前田家臣の津田重久や子の重次が城代となっていたが、城は元和元年(1615)の一国一城令で廃城となっている。その後、前田利家の子で3代藩主の利常が三男の利治に大聖寺を分封し、寛永16年(1639)に大聖寺藩7万石が成立したが、城は再興せず、麓に陣屋を構えて統治した。

 城は、標高70mほどの山を全体的に城郭化しており、山頂の本丸を頂点に、東へ延びる尾根筋に二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、鐘ヶ丸、戸次丸、東ノ丸等の郭群が配置されている。両手を上げた時の腕のように、同方向に延びた2本の尾根筋に郭を置く典型的な中世山城の形態で、領主の城であった狩野氏時代は、その間の谷に居館を営んでいたのだろう。城外の防衛線としては、北から西にかけては大聖寺川が廻り、東には熊坂川、三谷川があって、これらを天然の堀として活用している。

 江戸時代は、御料地として入山が禁止されていたため、城の遺構が良好な状態で残っており、城域には、山を一巡する遊歩道が整備されていた。この遊歩道も、整備され過ぎて城の雰囲気を壊してしまっているような感じではなく、適度に自然を残した古城の趣があって、なかなか良い。2度目の訪問は雨にたたられ、散策は断念したが、最初に来た時にはちらほら散歩する人も見かけたので、市民の良い散歩道にもなっているようだ。

 

最終訪問日:2001/9/15

 

 

1度目は夕闇間近、2度目は雨で断念と、なかなかしっかりと散策はさせてくれないお城です。

こんなところで堅城っぷりを見せなくても・・・