Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

末森城 (能登)

登山道口にある末森城の古戦場跡の碑

 末森城は他にもあるため、能登末森城とも呼ばれるが、その表記にはばらつきがあり、末盛や末守とも書かれる。

 末森城の築城者は不明で、相模から越中へ地頭として入部した越中土肥氏の、その庶流と思われる土肥親真が築いたという説もあるが、出土した遺物には15世紀後半のものが含まれており、戦国時代の初頭から城は存在はしていたようだ。ただ、史料に名前が登場せず、どのように使われていたか、誰が城主であったかなどは判っていない。

 城が最初に登場するのは、天文19年(1550)で、長家家譜に畠山家臣土肥但馬守なる武将が城主として見える。ただ、ここに出てくる戦いは同22年(1553)の戦いと推測され、また、後に前田利家の姪を室として迎えた前述の親真の年齢を考えると、但馬守は親真ではなく、その親族だったのかもしれない。

 一方、城が一次史料上に登場するのは、更に20年以上経った後で、天正5年(1577)の8月から9月にかけて上杉謙信の軍勢が末森周辺に侵攻して城を落とし、重臣の斎藤朝信と村上国清を末森城に配したことが見える。加賀と能登が新たに領地に加わったため、その間に位置する末森城が重視され、重臣が配されたのだろう。この後、親真に城が与えられ、城主になったようだ。

弧を描く形の末森城本丸

 親真は、元々が末森城主の地位にあって、上杉勢に降伏したともいわれるが、親真が畠山家臣として行動した一次史料は見えず、また、同年末に記された上杉家家中名字尽でも、越中衆の上位、かつ越中地生えの武将に限れば筆頭の位置に載っていることから、越中での早くからの上杉与党であったと推測され、信頼されて新たに能登の末森城を任されたと見るのが妥当なところだろう。ただし、前述の土肥但馬守との関係性はよく分からない。但馬守の親族等で、名跡を併せる形になったのだろうか。

 こうして親真は、末森城の城主となったのだが、織田家の勢力が伸張し、謙信が没して上杉家の影響力が薄れると、天正8年(1580)に織田家柴田勝家の率いる北陸方面軍に攻められ、親真は降伏している。しかし、親真はそのまま末森城を安堵され、翌年に前田利家能登一国を与えられると、他の能登の国衆と共に利家の寄騎に付けられた。しかし、本能寺の変後に起こった天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦で、親真は先鋒を務めたものの、討死してしまっている。

末森城二ノ丸虎口の喰い違い

 戦後、秀吉に降伏した利家には加賀二郡が与えられ、末森城は前田家譜代の奥村永福が任されることになった。その翌年の同12年(1584)には、秀吉と徳川・織田連合軍の間で小牧長久手の合戦が起こるのだが、徳川・織田連合軍と結んだ佐々成政が秀吉側の利家の領地である加賀と能登の連絡を分断すべく、9月に1万5千という大軍で末森城に侵攻して来る。これを末森城の合戦や末森の戦いと呼ぶ。

 戦いは、当然ながら圧倒的多数を擁する佐々勢が優勢に進め、永福は懸命に防戦するものの、親真の弟で城将だった次茂が城下を守るために城を出て討死し、その後は二ノ丸まで落ちるなど、城方は危機的な状況に追い込まれてしまう。

 しかし、急報を聞きつけた利家は、すぐさま軍を率いて出陣し、川尻の神保氏張の軍を避けて海沿いを進み、翌日早朝に攻囲する佐々勢の背後から襲い掛かった。不意を衝かれた攻囲軍は陣を崩し、その上、利家が末森城へ入城したこともあって、成政本隊は攻城を諦め、退却路にある津幡の鳥越城を押さえつつ撤退し、城方は撃退に成功するのである。

末森城二ノ丸から見た三ノ丸の全景と空堀

 この時の損害は、双方共に同程度といわれ、局地戦的には、実質的に痛み分けとも言えるのだが、戦略的には、以降の佐々軍は守勢に転じる一方、前田軍は攻勢を強めて翌年には越中を侵食し、やがて秀吉の越中討伐に繋がって行くことから、分岐点となった戦いであった。

 これ以降、城の事績は不明となるのだが、永福が移封になったという史料も見当たらないことから、引き続き奥村家が城代を務めたのだろう。そして、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。

 城の構造は、三日月型に近い細長い本丸を末森山の最高部に置き、1段下がった南側に二ノ丸、更に下がって三ノ丸を構え、この3郭が城の中核となっている。そして、この中核部の西南側に馬掛場、南東側に若宮丸、若宮跡という大きな削平地が続く。これら中核部より下に位置する郭は、居住空間や馬場と思われ、技巧的な防御施設は無い代わり、非常に大きな空間となっている。

末森城概略図

 これらの各郭からの動線を集約するのは、三ノ丸の直下の大手大門跡で、ここから上は土塁空堀が組み合わされ、二ノ丸までは特に複雑な構造となっており、見応えがあった。また、これらの郭軍から少し下がった中腹には武家屋敷があり、中腹より上で居住空間と防衛機能が集約された城である。

 城の場所は、国道159号線沿いに大きく表示が出ており、非常に分かりやすい。ただし、城への道は、国道159号線から国道471号線に入ってすぐの所にある。その車道入口から少し上った所に駐車場があり、駐車場から国道陸橋を渡ると登山道入口で、15分から20分登ると本丸に着く。訪れた時期が時期だけに、遺構には雑草も多かったが、全体的には整備の手がきちんと入った散策しやすい城で、激戦に思いを馳せつつ郭を辿って行くと、充実したひと時を過ごすことができる城である。

末森城大手道から若宮丸への細い虎口

 

最終訪問日:2018/5/28

 

 

二大末森城(?)は尾張能登の末森城で、これで制覇となりました。

末森城からは千里浜がすぐそこで、お城ライダーとしては城と道のそれぞれビッグネームで、のどかな風景ながら熱い場所でしたね。