Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

安田城

 安田城は、天正13年(1585)の秀吉による佐々成政討伐の際に築かれたと推測されている。ただし、築城年代については異説もあり、更に年代が遡る可能性もあるようだ。今後の史料発掘が待たれる。

 築城年とされる天正13年(1585)頃の情勢としては、前年の11月に小牧長久手の戦いが終わり、6月に四国に派兵して長宗我部元親を降したことで、西や東海筋の情勢が安定した秀吉には、飛騨や北陸に兵を向ける余裕ができていた。

 これに対して成政は、飛騨の姉小路頼綱(自綱)と共同戦線を張り、抵抗する構えを見せたのである。こうして、7月に成政討伐の軍令が下された。

安田城跡と安田城址

安田城説明板

 富山の役と呼ばれる成政討伐戦の緒戦は、秀吉軍の先陣である前田勢との小競り合いであったが、秀吉の陣容が揃ってくると、成政は越中国内の兵を富山城に集結させて籠城策を採ることとなる。

 籠城は、兵の多寡を考えれば常道ではあったが、これによって秀吉は長期戦を予測したようで、その本陣を白鳥城、その前面の両翼として安田城と大峪城を整備し、安田城には前田家臣岡島一吉が入った。だが、成政は兵力の差を考えて勝ち目が無いことを悟り、秀吉が白鳥城に入城する前に降伏している。

 戦後、越中の大部分は前田利家の子利長に与えられたが、新川郡が佐々領として残ったため、白鳥城と安田城、大峪城はそのまま活用され、安田城は一吉がそのまま城代となった。

安田城本丸の幅広の土塁上から二ノ丸の眺め

安田城二ノ丸南虎口から二ノ丸内部と本丸との接続部

 天正15年(1587)に成政が肥後へ転封した後は、越中一国が前田領となったことから、安田城は一旦は城としての役目を終えたようだが、利長が慶長2年(1597)に富山城へ入城すると、その支城として白鳥城に一吉と片山延高が入り、山城の不便さからか平時は安田城に居住したという。

 そして、同4年に利家が没すると、利長は家督を継いで金沢へと移り、一吉もそれに従ったため、平野三郎左衛門が在番したものの、程なく廃城になったようだ。

 城は、井田川の西岸に構えられた平城で、井田川の水を引き込んで幅広の水堀で区画し、方形の本丸から不整形の長方形である二ノ丸が南に続き、長方形から一部を欠いたような右郭が本丸の南西、二ノ丸の西側にある。

 同時期に整備された大峪城が、方形で各郭の縦横の軸が揃っているのに対し、安田城は本丸に対して二ノ丸と右郭の縦横の軸がずれており、地形の制約を受けない平城としては、変わった構造と言えるだろう。

安田城立体縄張図

安田城右郭から堀を挟んで見える本丸

 この軸のずれを前身の城砦の再利用と考え、本丸を付け足した形とする見方や、二ノ丸と右郭を付け足したとする説もあり、前述の築城年代の異説に繋がっている。

 安田城は、昭和56年(1981)に国の史跡に指定され、現在は総芝生敷きとなっており、散策し易い上に構造がとても解り易い。現地では、写真を撮る人や家族連れもいて、城に興味が無い人でものんびり過ごせる場所であるようだ。

 個人的には、幅広の土塁を全周させている本丸が、特に目を引いた。この部分は近世城の趣が強く、本丸の北東隅に櫓があったのは想定されているが、他にも土塁上に建物があったのかもしれず、重厚さがあって良かった。往時の建物が想像復元された城跡もいいが、安田城は、上物が何も無いことによって古城の史跡らしさが出ていて、これはこれで雰囲気の良い城である。

 

最終訪問日:2017/5/21

 

 

初夏めいた晴れた日というのもあったんですが、芝生が青々としていて、とても爽やかなお城でした。

弁当でも持ち込んで、まったりと過ごしたいぐらい、清々しい城跡ですね。