慶長14年(1609)、加賀藩2代藩主前田利長の隠居城となっていた富山城が、城下からの火災によって城内の建物のほとんどを焼失してしまった。これにより、利長は一時、魚津城に身を寄せるのだが、やがて、富山城の再建ではなく、新たな隠居城として関野の地に城を築城することを選んだ。
この辺り、後の小松城の大改修もそうだが、徳川幕府も、大藩の前田家には何かと一目置いていたのかもしれない。こうして、新たな隠居城として高岡城が築かれ、同時に地名も高岡と改められることによって高岡と高岡城の歴史は始まった。
城の縄張は、豊臣政権期にキリスト教の禁教令に背いて追放され、前田家の預りとなっていた高山右近重友が担当したと伝わっており、その戦国を生き抜いてきた思想によるものか、江戸時代に築かれた近世城郭ながら、戦国時代らしい構造が所々に見られる城となっている。このため、全体を見た感じでは、隠居城と考えるには軍事的構造が整えられ過ぎている城という印象が強い。
城の構造としては、中央に本丸を置き、その西南にある二ノ丸から反時計回りに、桝形を拡張したような鍛冶丸、明キ丸、三ノ丸、そして沼田に囲まれた御城外が本丸を取り囲むようにあり、全体として北東方向から南西方向にかけての長方形の形をしている。
本丸の北西に郭は存在しないが、当時はこちらに沼や深田が広がっており、天然の地形の防御力をうまく取り込んでいたらしい。また、本丸の北側には張り出した部分があり、天守閣が予定されていたともいう。
城としての存在期間は短く、慶長19年(1614)の利長の死後、稲垣与右衛門や岡島一吉が城を守ったが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となり、建物などは破却された。また、一説に廃城は寛永15年(1638)のことともいう。
だが、城域自体は藩によってその後も管理され、幾棟かの倉庫も建っていたようだ。そういう経緯もあってか、石垣の一部や水堀の大部分は現在も残っており、城郭全体が古城公園として整備されている。
前に訪れた時は、何かの大会か試合があったのか、平日の割に人が多かった印象が強かったが、22年振りでもその印象は変わらなかった。相変わらず都市部の城跡らしく、日曜ということもあって家族連れなど多くの人がおり、絶好の緑地として市民に利用されているようだ。また、城内の射水神社には弓道場があるのだが、この日はちょうど弓道の試合があったようで、袴姿の学生が歩いており、古城らしい雰囲気に花を添えていた。
最終訪問日:2017/5/21
都市公園という感じのお城で、明石城ほどの立派な高石垣は無いですが、どちらも弓道場がありますし、なんとなく雰囲気が似ていて、親しみが持てますね。
すごく個人的にですけど、縁を感じる城ですね。