Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

膳所城

膳所城跡公園にある城址

 琵琶湖に張り出した平城の水城で、日本三大湖城のひとつ。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦直前に、その前哨戦としての籠城戦があった大津城を廃して、合戦翌年に築城された。その理由は、大津城が籠城戦の際に、近くの長等山から城内を見渡せたので、それを家康が嫌ったためといわれる。

 膳所城の築城は、関ヶ原の合戦後に大津城主となった戸田一西に命じられたが、縄張は藤堂高虎が担当し、普請は諸大名が分担して行うなど、江戸時代初期の主要な城の築城に適用された天下普請の最初の例となった。そして、完成後は戸田一西がそのまま3万石で城主となり、子氏鉄が元和3年(1617)に尼崎へ転封して以降も、東海道と京を結ぶ要衝であることから譜代の守る城として、本多氏、菅沼氏、石川氏と続き、本多氏が7万石で再封してそのまま維新を迎えている。

 城の構造は、琵琶湖に突出して本丸を置き、その南北にある二ノ丸や北ノ丸に続いて陸地側に三ノ丸を配した梯郭式の縄張で、四層四階の天守が湖面に映える美しい城であったという。ただし、寛文2年(1662)の地震からの復興の際、本丸と二ノ丸の間が埋められており、当初よりは縄張が変わっている。

 現在は、城域の大半が公官庁や住宅団地などの敷地になっているが、県道102号線よりも湖岸側の城跡の一部が公園として整備されており、城門や隅櫓の一部も、寺社などに移築されて他の場所に現存しているという。この公園化されている部分が本丸跡で、隣接する南の浄水場が二ノ丸跡である。この琵琶湖に突出した城の構造が、湖水の侵食による頻繁な改修の必要をもたらし、藩の財政を非常に苦しめたようで、明治3年(1870)に出された廃城に関する太政官布告の翌日から、早くも取り壊しが始まったのも、それが一因であったともいう。

 公園やその周辺には案内板などが無く、縄張図を元に散策するといったことができなかったので、正確にどのような構造をしていたかは、現地から実感することができなかった。また、公園には建造物の類が無く、公園の琵琶湖側に僅かに確認できる当時の石垣が、水城の雰囲気を漂わせているに過ぎない程度だ。公園の道路側には、城があったのを主張するように堀跡があるが、石垣は明らかに近代の造りで、遺構ではなく模擬なのだろう。

 膳所城には、前述のように四層四階の天守があり、廃城の際に天守も破却されてしまったのだが、今も残っていれば、湖面に映えて非常に優美な城の景観があったと思われ、非常に惜しまれる。子連れの家族で賑わう公園の湖岸を散策しつつ、近江大橋という典型的な近代構造物を眺めながら、そんなことを感じた城だった。

 

最終訪問日:2001/8/23

 

 

やっぱり平城というのは、再利用しやすいので、遺構は残りにくいですね。

城跡は、都市部の親水公園という感じで、家族連れがたくさんおり、地元の方に愛されているようです。

城門が、周辺の神社に移築されているので、それらを見て回るのもいいかもしれません。