Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

田辺城 (舞鶴城)

模擬復元された田辺城の城門と隅櫓

 舞鶴市は、軍港の東舞鶴と城下町の西舞鶴に分けられるが、城は当然ながら西舞鶴にある。

 明智光秀と共に天正6年(1578)から丹後攻略に取り掛かっていた細川藤孝は、翌年に一色義道を居城の建部山城から追い、その子義定(義有・義俊)とは婚姻を結び、平定した丹後の南部2郡を領地として与えられた。こうして丹後半国の領主となった藤孝は、その治所として宮津に本拠城を築いたが、一色時代の中心であった田辺、八田にも統治のための城を考え、天正8年(1580)から築いたのが田辺城である。城地は、かつて一色氏の居館があった場所ともいう。

 城の縄張は、藤孝と忠興の共同で行ったようで、最初の城主は、藤孝の嫡子忠興が務めた。つまり、細川時代の丹後は、田辺城の忠興、宮津城の藤孝、峰山の吉原山城の興元と、東南から西北へ一直線上に拠点があったということになる。

田辺城の天守台石垣

 天正10年(1582)の本能寺の変では、細川氏は光秀の与力という立場で、しかも忠興の室が光秀の娘という濃密な関係ながら、藤孝は光秀の協力要請を断って信長への弔意を表すために断髪出家し、幽斎と名乗って隠居した。その後、本拠の宮津城には当主となった忠興が入り、田辺城は藤孝の隠居城となっている。

 慶長5年(1600)年の関ヶ原の合戦では、忠興が主力を率いて家康の会津遠征に従ったため、三成が家康打倒の兵を挙げた時には、丹後には僅かばかりの守備兵しかいなかった。この時、お家存続のために、真田氏や生駒氏のように父子で東西に分かれるという手もあったのだが、幽斎は東軍に味方することを表明し、寡兵で戦うため、忠興の留守を守って在城していた宮津城から田辺城へ移っている。こうして丹後の守備兵を集約させ、更には敵に拠点として使われないよう他の城は火を放つなどして破却した。

 西軍の攻撃は同年7月から始まり、対する幽斎の指揮は秀逸でよく持ちこたえていたが、さすがに1万5千の攻城軍に対して5百の守備兵では如何ともしがたく、落城寸前まで追い込まれてしまう。

本丸隅部の野面積の石垣

 この情勢を心配したのが後陽成天皇で、古今伝授を受けた幽斎が討死するのを恐れ、田辺城の開城を勧めたのだが、幽斎は武門の名折れと拒否し、代わりに古今相伝の和歌集などを送付した。しかし、後陽成天皇はなおも諦めず、遂には伝家の宝刀ともいうべき勅命での講和を命じたのである。これにより、幽斎はようやく城を明け渡したのだが、結局、田辺城攻略に参加した西軍諸将は関ヶ原で行われた本戦に参加することは叶わず、東軍勝利の遠因のひとつとなった。

 関ヶ原の合戦後、細川氏は豊後に加増転封となり、田辺城には京極高知が入ったが、元和8年(1622)に高知が没したため、領地は3人の子に分知されることとなる。田辺城には、次男の高三が入ったが、高三の嫡孫高盛の時に但馬豊岡へ移り、代わって入った譜代大名の牧野氏の居城として維新を迎えた。ちなみに、舞鶴市は田辺城の別称である舞鶴城から採ったものであるが、城自体の読みは「マイヅル」ではなく「ブカク」と読む。

田辺城縄張図

 城の縄張は、藤孝の築城後、江戸時代に京極氏と牧野氏によって改修が加えられ、最終的には長方形に近い本丸を二ノ丸、三ノ丸、外郭の各郭と二重の堀が囲む形となっているが、本丸と二ノ丸に掛けての動線は渦郭式の構造である。明治6年(1873)の廃城令で廃城となった後は、翌年から建物が取り壊され、現在は本丸と二ノ丸の一部が公園として残っているのだが、それ以外の城地は、市街化による改変も進んでおり、城の全体像は非常に掴みづらい。

 現在の城址には、隅櫓を模した彰古館が建ち、平成4年(1992)には城門も再建されているが、この2つを基にして散策しても、城の縄張がうまく把握できなかった。よくよく案内板を見てみると、城門が古地図の内堀の位置にある。どうやら、城門は跡地での復元ではなく場所も含めて模擬復元であるらしい。ただ、公園内には発掘された礎石や天守石垣などもあり、それらから往時の姿や縄張を偲ぶことができるので、遺構はよく残されている部類の城だろう。ちなみに、城門の2階と彰古館は、資料館として無料開放されている。

内堀跡に敷かれた鉄路沿いには本丸と二ノ丸の横矢構造の石垣が残る

 

最終訪問日:2023/10/15

 

 

175号線を、北へ北へと走った先にある城なので、若い頃から何度となく来た城です。

復元された城門も立派ですが、よく残っている野面積の石垣が、古城の趣を残していていいですね。