Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

園部城

園部城址

 園部には、戦国時代から城があったといわれ、明智光秀丹波攻略で天正6年(1578)に荒木氏綱が籠る城を降したとの記述が信長公記にあり、この氏綱の籠った城が園部城だとされる。だが、これが園部城のことを指すのか、篠山の細工所城のことを指すのかは、議論のあるところのようだ。

 また、中世に園部城そのものが実在したかどうかも不明で、城の場所も特定されていないという。一説に、城は小麦山にあったといわれるのだが、小麦山の山容は割となだらかで、あまり城砦に向いてないように思われ、実際はどうだったのだろうか。

 実在云々はともかく、これ以降、園部に何らかの拠点が置かれることはなかったが、江戸時代の元和5年(1619)には、出石より小出吉親が入部し、園部藩が成立する。これに伴い、吉親は居館の造営に着手し、2年後の同7年(1621)に完成したのが園部城であるが、当時は幕府から許可が出なかったため、陣屋と称していた。

園部城城門と巽櫓

 ただ、小麦山東南麓の丘陵に、山を背にして方形の居館を置き、内堀を挟んで東南北に武家屋敷や城下町を配し、更に外堀による惣構えを持つという構造を見ても、これは十分に城と呼べる規模だろう。

 江戸時代の小出氏は、幕府要職に就くなど外様ながら幕府に厚遇されたが、幕末の頃の藩の思想は勤王であった。藩主秀尚は幼く、藩の方針に対して主導的な力を発揮しなかったと思われるが、藩全体として朝廷を支持し、京都の警固などを務めている。

 園部藩は、この任務に絡み、万一洛中が戦場になった場合のことを考え、非常時には京に程近い園部に天皇を始めとした朝廷の重要人物を迎えようと、園部城の改修を幕府に申し出た。しかし、この申し出は幕府のある間に許可が下りず、大政奉還後に明治政府によって許可されることとなる。こうして、明治2年(1869)に完成した園部城は、維新後に築城された城、つまり日本で最後に築城された城という称号を得ることになった。

園部城説明板

 維新後の改修では、小麦山山頂に天守とも言える三重の櫓が建てられ、本丸にも4棟の櫓を上げたほか、本丸以下、城の各所に櫓門が3ヶ所設けられており、堂々とした城の構造を持つようになったが、それが機能した期間は短く、早くも明治5年(1872)には城内の建物が払い下げられてしまっている。しかも、払い下げの前には廃藩置県版籍奉還があり、実質的に城として機能したのはさらに短い期間であった。

 園部城の城としての威厳は、園部高校校門の櫓門や、すぐ横の巽櫓に残っている。ただ、城として残っている遺構は少なく、古城としての趣は乏しかった。三重櫓のあった小麦山にも登ったが、この山は傾斜が緩く、防御面ではかなり心許ない。ただ、山頂にあった櫓は、シンボルとしては役立ったろうと思われる。総評としては、天皇を迎えて守るという大義名分の割に、櫓の構造などにも泰平の余韻があり、有事の城砦としてはかなり未完成に感じる城だった。

三層櫓があった小麦山山頂

 

最終訪問日:2010/5/26

 

 

櫓門が校門がこれほど立派だと、勉強にも身が入るな~と一瞬思ったんですが、昔の自分を顧みると、そうでもなさそうな・・・

城好きから見れば、もの凄い贅沢な事ではあるんですが、目の前の勉強とは別でしたね笑