Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

和歌山城

和歌山城楠門の前から和歌山城復元天守と連結多聞櫓

 日本三大連立式平山城に数えられるほどの、代表的な近世平山城

 戦国時代の紀伊は、室町時代から続く守護の畠山氏は存在したが、畠山氏は畿内の政戦争に軸足を置き、後には家中の内訌もあったため、紀伊の支配は緩やかであった。このことから、雑賀衆などの地縁的集団や根来寺などが割拠し、統一的な戦国大名の出現がないまま、中央を制した秀吉に天正13年(1585)に征伐される事となる。

 征伐後、秀吉は弟秀長にこの地を与え、城地を自ら選んで縄張りし、秀長の家臣藤堂高虎を普請奉行として本丸と二ノ丸を築城させた。これが、和歌山城の創始である。翌14年(1586)には、大和郡山を本拠としていた秀長によって、家臣であった桑山重晴が城代として封じられ、秀長とその跡を継いだ秀保の死を挟みつつ、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦までの14年間、重晴とその孫の一晴が、本丸部分を中心に整備を進めたという。

 関ヶ原の合戦後、慶長5年(1600)に豊臣恩顧の大名であった浅野幸長が37万石余で入部したが、弟長晟が藩主であった元和5年(1619)に福島正則改易後の広島へ移封となり、代わって家康の十男頼宣が55万5千石で入部した。これにより、徳川御三家のひとつとしての紀伊藩が成立する。

 以後、紀伊藩は8代将軍吉宗を輩出し、吉宗以降の将軍のほとんどを紀伊藩の血筋の者が占めるに至った。

 幕末には、藩主茂承が長州征伐の先鋒総督を務めるなどしたが、戊辰戦争の際には新政府軍に恭順の姿勢を示して軍資金を献上し、討伐を免れたという。そして、城は明治4年(1871)の廃藩置県で役目を終え、同6年(1873)の廃城令では存城となり、第4軍管第8帥管の分営地となった。

和歌山城岡山口の櫓門と天守遠景

 現在の城の基礎部分は、豊臣政権期のものを中心として江戸時代初期に浅野氏が修築したもので、この時には大手門の変更や二ノ丸の整備が行われている。浅野氏が広島に転封した後、徳川頼宣入部に伴い、御三家の居城に相応しいように、また、南海道と西国に対する拠点としての役割を担うよう、大規模に拡張されて現在の姿となった。

 城の中心は、標高48.9mの虎伏山で、西に大天守と小天守、櫓2棟などを多聞で連結した天守郭があり、弘化3年(1846)に落雷で焼失したが、4年後には復興されたという。これらは、戦前には国宝に指定されていたが、残念ながら昭和20年(1945)の空襲で焼失し、今の天守は昭和33年(1958)に鉄筋コンクリートで復元されたものである。

 天守郭の東には、浅野時代に二ノ丸と呼ばれていた本丸御殿があり、この2つの郭が防衛機能の核となる場所であった。その間は巨大な堀切のようになっており、他の城にも見られるように、戦時にはどちらかが陥落しても防御能力を保てる一城別郭的な構造になっていたと思われる。

 この堀切のような場所から北に下りたところが本丸で、更にその北に二ノ丸があり、ここに政庁機能や藩主の居館があった。二ノ丸の西には内堀を介して西ノ丸と砂ノ丸があり、内堀の内側には時計回りに松ノ丸、南ノ丸が置かれ、この南ノ丸からは、浅野氏時代の大手門で後に搦手となった岡口門が繋がっている。岡口門の櫓門は、和歌山城に残る数少ない建物で、土塀と共に重要文化財に指定されている貴重なものだ。

 軍の分営地として使われていた城は、明治34年(1901)に和歌山公園として一般市民に公開され、前述の天守閣を始め、現在は西ノ丸の庭園も復元されている。公園は、都市の中心部にありながら、巨大な城域が公園としてほとんど残されており、一部の堀が埋め立てられ、郭も運動公園などになってはいるが、徳川御三家の威容を今に十分伝えている城と言えるだろう。

 

最終訪問日:2003/4/26

 

 

徳川御三家のひとつだけあって、城地がめちゃめちゃ広いです。

特に、連結された多聞と隅櫓と天守が、近世城の完成形を感じさせますね。

戦災で焼失してしまったのが、本当に悔やまれます。