Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

名古屋城

名古屋城天守と小天守

 三大名城に数えられる事もある城で、徳川御三家のひとつである尾張徳川家の居城。

 名古屋城の城地には、戦国時代にも城があった。一説に信長が生まれた場所ともいう那古野城である。この那古野城天正10年(1582)頃に廃された後、城地は原野へと還っていたが、家康の九男義直による尾張徳川家創設にあたり、尾張一国の本城であった清洲城は、巨大な藩の人員を収容するには手狭で、尚且つ水害の危険もあったため、清洲城からの本拠の移転が考えられた。

 そこで、那古野、古渡、小牧という3つの古城が候補として挙がり、防御力と巨大な城下町を造営できる後背地が勘案された結果、那古野が選定され、新たに天下普請の巨城として築城されたのが、この名古屋城である。

 名古屋城築城が慶長14年(1609)11月に正式決定され、翌年1月に天下普請として北陸と西国の20の大名に助役が命ぜられると、各大名が競って多くの人夫を投入したため、同年内に殆どの石垣が積み終わるという驚異的な早さで工事は進んだ。そして同年中には巨大な天守の造営に入り、2年後の同17年(1612)に天守が完成している。

清須城の天守であったという伝説を持つ清州櫓こと西北隅櫓

 また、この頃から、俗に清洲越しと呼ばれる大移動が始まり、清洲城下町の町人や寺社が名古屋城下に移され、清洲城天守清洲櫓と呼ばれる西北隅櫓として移築されたという。そして、同20年(1615)の本丸御殿の完成をもって、初期の工事がほぼ完了したが、この年は奇しくも、築城理由のひとつであった豊臣家が滅亡した年でもあった。

 豊臣家滅亡後、幕府は大坂城を完全に縄張りし直し、新たな大坂城を築城しているが、仮想敵国である西国大名に対する防衛構想として、大坂城とこの名古屋城が防衛拠点であったと思われる。この両巨城を中心として、大坂城は姫路、明石、尼崎、篠山といった親藩譜代の城が支城網を形成し、名古屋城は附家老の城に加えて加納、桑名の親藩譜代の城、そして准譜代とも言える藤堂家の上野と津の両城が支城の役割を担ったのだろう。

 尾張徳川家は、御三家筆頭ながら将軍を輩出しなかった家だが、これは筆頭であるが故に警戒されたという説がある。だが、将軍を出さなかったとは言え、藩主は江戸時代を通じて一定の政治力を持ち続けた。

名古屋城東南隅櫓

 幕末の藩主慶勝は、尾張藩支藩から本家の藩主になった人物だが、長州征伐の総督に就くなど幕末史には欠かせない人物であり、慶勝の弟には、会津藩松平容保桑名藩松平定敬がいる。また、親藩中の親藩の藩主ながら、定敬の思想は尊皇攘夷であったらしく、第一次長州征伐で西郷隆盛を登用したほか、第二次長州征伐には反対し、鳥羽伏見の合戦後の大坂城受け取りの際は新政府側として活動するなどした。

 ちなみに、慶勝自身は水戸徳川系の血筋であり、かなりの藩がそうであったように、尾張藩も9代宗睦で血統自体は断絶している。

 城は、幾度かの修理を重ねたが、幸いにして大きな損傷もなく、無事に維新まで生き残った。明治3年(1870)には、慶勝によって一旦取り壊すことが決められたが、翌々年に名古屋鎮台が置かれたことから結果的に保存され、同12年(1879)に陸軍卿山県有朋によって正式に保存が決定されている。

二ノ丸と西ノ丸を分かつ鵜ノ首と呼ばれる堀の深入り部分

 その後、同26年(1893)からの名古屋離宮を経て、昭和5年(1930)に名古屋市へと下賜されると同時に、大天守を含めた建造物24棟が国宝指定を受けているのだが、同20年5月14日の大空襲で大小天守や本丸御殿、北東隅櫓などが焼失してしまった。現在は、焼失を免れた隅櫓や城門など6棟が重要文化財に指定されている。

 城は、周囲からやや高い名古屋台地の西北端に位置し、西と北は崖の高低差を、北側は深井(フケ)と呼ぶ湿地帯を防御力とした城で、城内だけを見れば高低差のほぼ無い平城であるが、厳密には崖城と言えるだろう。

 城の構造は、内堀で囲む方形の本丸を中心として、これを取り囲むように、湿地帯の西北に御深井丸、西南に西ノ丸、東に二ノ丸を構え、この3郭の外側に中堀があった。西ノ丸と二ノ丸の南から東側には三ノ丸があり、外堀を挟んでその南や東に城下町が広がっていたようだ。二ノ丸の北は防御力を考えて湿地帯が残されていたが、やがて藩主別邸の庭池として利用され、御深井池と呼ばれた。この御深井池は今の名城公園にあたり、大部分が埋め立てられたが、今も一部が残っている。

名古屋城案内図

 訪れた日は、雲ひとつ無い快晴で、下から見上げる大天守が言葉にし難いほど青空に映えていた。だが、これは昭和34年(1959)に復元された鉄筋コンクリートのものである。

 司馬遼太郎が、その著書の中で、数日前に見た名古屋城の大天守が跡形も無くなっていたと書いているが、名古屋の人にとって、空襲による天守焼失はかなりの衝撃だったようで、戦後すぐに天守の再建運動が起こった。木造による完全復元でないところが非常に惜しいのだが、外観復元ながら、清正が積んだ天守台の反りのある石垣と合わせ、特別な存在感を持っている城郭建築である。

 城内に現存する隅櫓は3棟あるが、最も秀麗なのは北西隅櫓で、前述のように清洲櫓ともいう。伝承では、清洲城天守が移築されたものいわれ、実際に資材には再利用した痕跡があり、他の2棟とは趣を異にしている。

 その他の見所としては、表二ノ門や内堀の高石垣、鵜ノ首という堀の入り込み、槍の穂先を並べて忍び返しとした剣塀、石垣の刻紋など、枚挙に暇が無く、さすがの名城といったところだろう。

清正石と呼ばれる巨大な鏡石は黒田長政の持ち場の石垣

 

最終訪問日:2010/12/27

 

 

名古屋城をじっくり見て回るのに半日ほど掛かりましたが、当時は本丸御殿の再建工事中で、作業場などもあり、あまり落ち着きませんでした。

御殿の再建工事が竣工し、今度は天守の木造復元ということですので、その工事が終わったら、また城をゆっくりと散策したいですね。