安土城の二ノ丸跡にある織田信長の廟所。本能寺の変の翌年の天正11年(1583)2月、秀吉によってゆかりの品々が納められて建立された廟所で、信長公本廟ともいう。
尾張国守護代織田家には、室町時代以降に並立した清洲織田家と岩倉織田家の二家があり、信長は、清洲織田家の庶族で、その三奉行のひとりであった織田信秀の子として生まれた。
出生地は那古野城とも勝幡城ともいわれ、信秀の跡を継いで当主となったが、実は三男である。これは、兄が庶子であったからとも、長子信広には今川家に捕えられた過去があったためだともいう。また、信長の最初の名乗りは三郎だが、信秀も三郎を名乗っており、三男だから三郎ではなく、嗣子として三郎の名を継承したものと思われる。
信長は、成長すると奇抜な格好や行動から大うつけと呼ばれ、信秀の葬儀で抹香を投げつけた逸話は、創作説もあるが、非常に知られた話で、そのうつけと呼ばれた性格の象徴と言えるだろう。だが、家督を継いでからは、弟信勝(信行)を始めとする一族の叛乱を逐一潰して尾張を実質的に統一し、武将としての資質が秀でていることを示した。
永禄3年(1560)には、絶体絶命の危機を桶狭間の合戦で今川義元を討ち取って乗り越え、同10年(1567)に美濃へ進出し、その翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たす。だが、越前朝倉氏の討伐において、同盟者であった背後の浅井長政が突如として叛旗を翻し、命からがら退却したのを手始めに、将軍義昭との対立もあって包囲網が結成され、以後10年以上に渡って各地で討伐を重ねた。その間、武田信玄や上杉謙信の死去という幸運もあり、天正3年(1575)の長篠の戦いで武田勝頼を撃破し、同8年(1580)に本願寺と有利な条件で和睦するなど、時に苦境に陥りながらも、徐々に敵対勢力を駆逐して行ったのである。
こうして、天正10年(1582)には、武田氏を滅ぼして上野まで支配圏を広げ、中国の対毛利戦線も目鼻が付き、北陸では上杉氏を追い詰め、四国にも派兵する準備が整いつつあり、いよいよ天下統一が見えてきた段階まで来た。そして、秀吉の要請で自ら中国戦線に赴くため、京都の本能寺に宿泊していた6月2日の早暁、家臣の明智光秀によって討たれてしまうのである。享年49。好んで舞った敦盛の一節である「人間五十年」に、1年足りない生涯であった。
この本能寺の変の際、同じく京にいた嫡子信忠も、急を知って本能寺に救援に向かったものの、大軍に跳ね返されて二条城に籠り、自刃している。信長は、この時にはすでに名目上隠居していたとは言え、実質的当主と後継者を同時に失ったことが、信長死後の織田家の混乱と没落に繋がった。
また、信長の廟所がある安土城も、主と運命を同じくするかのように、急行軍で東進してきた秀吉に光秀が敗れ去った山崎の合戦の直後に焼失してしまっている。この時、安土城の留守を預かっていたのは、光秀の重臣明智秀満で、坂本城に退去する際に安土城火を放ったとも、その後に入城した織田信雄が焼き払ったとも、あるいは失火で焼失したともいわれているが、信長と信忠、そして安土城と、大きな存在が短期間に失われたわけで、当時の人々は、時代の変わり目を強く感じたのではないだろうか。
信長の遺体は、本能寺の焼け跡からは発見されておらず、当然ながら、この廟所にも骨は納められていない。だが、生まれた尾張でも死地である本能寺でもなく、信長が栄華を極めた頃の本拠だった安土城が、廟所の場所としては最も相応しいのだろう。付近には、次男信雄とその子孫の墓もあり、父子はゆかりのある安土の地で静かに眠っている。
最終訪問日:1996/10/8
安土城跡は、礎石が壮観な天守跡や石垣が見事な本丸などがありますが、天守跡西側の二ノ丸跡は、やや雰囲気が違って厳かでしたね。
信長自身は、伝えられるイメージからは、祀られる事自体を冷ややかに見そうではありますが、実像はどうだったんでしょうか。