元亀3年(1572)に明智光秀によって築城された城。琵琶湖の水を取り込んだ水城で、当時は大天守や小天守を擁し、安土城に次ぐ壮麗な城だったという。
築城目的は、その立地場所からも解るように、西の比叡山に対する監視と、東の琵琶湖からの水上交通を含めた京へ入る今道越えルートの確保である。時期的にも、元亀2年(1571)9月12日にあった比叡山焼き討ち直後の築城であり、築城後にそれまで同様の機能を担った拠点である宇佐山城を廃していることから、理由は非常に明確であった。
城は、前述のように水城で水上交通を重視しており、直接琵琶湖から城に入れたようで、信長も京都に入る際には、琵琶湖から坂本城を経由して今道越えのルートで入京することが多かったようだ。
この時期の信長は、秀吉の長浜城、叛乱した弟信勝の子ながら信頼していた織田信澄の高島城、そしてこの坂本城と、本拠である安土城を中心に、琵琶湖岸に配した3つの水城で四角形を描き、自らの移動に使っていた。
この3つの水城の内のひとつ、長浜城の城主であった秀吉は、長浜城を本城として妻お寧を始めとした家族を置きつつも、軍事上の拠点としては播磨の姫路城を本城としていたが、光秀も同じような体制であったらしく、この坂本城に妻子を置きつつも、丹波の亀山城を軍事上の拠点としている。ほかにも、織田家重臣の丹羽長秀が、佐和山城主のまま若狭国を与えられており、織田家の支配体制のひとつの形であったのだろう。
天正10年(1582)の本能寺の変の際には、光秀は坂本城から亀山城に入って征西の軍備を整え、その軍備のまま、有名な老ノ坂を越えて洛中へと入っており、この坂本城は関係無かったが、本能寺の変の11日後、山崎の合戦で敗北した光秀は、この坂本へ落ち延びる途中に小栗栖で土民に討たれている。絶望的な状況の中、城を枕に討死しようとしたのか、再起を図ろうとしたのか、その胸中は知れない。
その山崎の合戦の時、占領した信長の居城安土城を守備していたのは、光秀の甥とも女婿ともいわれる明智秀満であった。
秀満は、光秀の死を知って坂本城に退き、秀吉の軍勢が囲む中、明智家秘蔵の宝物を秀吉に送り届けつつ家臣らを落ち延びさせ、光秀の妻子を刺殺した後、城に火を放って自刃し、坂本城も落城している。
この秀満は、坂本城への退却の際、陸路がすでに封鎖されていたため、馬を鼓舞して湖水を渡ったという「明智左馬之助の湖水渡り」の伝説を残しており、この伝承といい、主君が討たれた後の事後処理の見事さといい、軍人としても政治家としても、良き武将であったのだろう。
この落城焼失後、城は丹羽長秀に与えられて復興され、次いで杉原家次が城代を務めたが、次の城主の浅野長政(長吉)の時である天正14年(1586)頃に、新たに築城された大津城へ機能が移され、廃城となった。
その理由としては、大坂城を本拠とした秀吉は、南西の淀川水系を交通路として使用したため、東国との結節点としては、東海道に繋がる大津のほうが軍事物資両面で重要だったためである。
城の構造は、存在期間が短かったために全容は不明だが、琵琶湖側に本丸を置き、そこから同心円状に二ノ丸、三ノ丸等の郭を重ねた縄張であったと推測されているという。これは、後継にあたる大津城も同様で、ちょうど大津城の縄張を90°回転させたものと考えれば解りやすい。
現在の城域は、中心部を旧国道161号線の道路が貫いており、遺構としては石垣が僅かばかり残るほかは何も無く、城の南端に当たるところに城址碑が建っているのみだった。ただ、琵琶湖の渇水時には、湖底に沈む石垣が顔を出し、ニュースとなるのが恒例となっている。
近年、発掘調査によって、碑の300m程北に天守があったであろうことが判ったほか、三ノ丸の縁辺と思われる石垣が出土しており、今後も発掘調査によって新たな発見があることを期待したい城だ。また、下坂本の東南寺に首塚があるのだが、調べたところによると、その付近にも城址碑があるらしい。
最終訪問日:2001/8/29
城跡は、今はのどかな湖岸となっていて、当時の面影はありませんでした。
ただ、西を仰ぎ見れば、隆々とした山塊が迫り、対叡山という城の役目がよく理解できます。