Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

朽木城 (朽木陣屋)

朽木城から改修された朽木陣屋の説明板

 北川と安曇川の合流点近くの丘にある城で、朽木谷城や朽木館、朽木屋敷ともいう。また、後世になって城から陣屋に改修されたため、朽木陣屋とも呼ばれる。朽木を支配した豪族朽木氏の居城であり、別名が示すように里城で、北の西山城が詰城として軍事的な機能を担った。

 朽木氏は、鎌倉時代初期の近江守護であった佐々木信綱の系統で、高島郡田中郷を領して高島を称した次男高信の、さらにその次男頼綱を祖とする。朽木を得たのは信綱の時で、承久3年(1221)の承久の乱の功によって朽木荘を与えられ、やがて頼綱が朽木荘を相続し、その子義綱の頃である弘安10年(1287)より朽木を称したという。

 ちなみに、高信の兄弟である泰綱は六角氏の祖、氏信は京極氏の祖であり、佐々木氏流の中でも、朽木氏は比較的嫡流に近い出自である。

 城のある朽木は、京に近く、北陸と京を結ぶ有名な鯖街道を扼す位置にあることから、朽木氏は近江国高島郡周辺に力を持っていた高島七頭のひとつに数えられた。また、元弘元年(1331)からの元弘の乱以降は足利尊氏に一貫して従ったことから、室町時代には足利将軍家に側近として仕え、京に戦乱が起こる度に義澄、義晴、義輝といった歴代の将軍をこの地に迎えている。

朽木城跡の入口に立つ冠木門

 つまり、六角氏が危機的状況になる度に甲賀地方へと逃れたように、将軍家における甲賀的な避難潜伏場所として、朽木は機能していたようだ。

 戦国時代の近江国内の情勢としては、南近江の守護である六角氏に定頼が出て大きく勢力を伸張させると、その頃の当主稙綱は幾度か抗するも、やがて独立を失ってその影響下に入ったと見られる。

 稙綱の死後、子の晴綱は、同族で惣領にあたる高島越中守と戦って早くに討死し、幼少ながらその子元綱が当主となったが、六角氏が臣従させていた浅井氏に永禄3年(1560)の野良田の合戦で敗れて弱体化すると、その影響下から脱し、浅井長政と和した。この時、千石の知行地増加があったことから、恐らく浅井氏と半独立の緩やかな従属的盟約を結んだと思われる。

 また、足利義昭が信長の後援で上洛して以降は義昭に仕えたようで、元亀元年(1570)に信長が義弟長政の離反に遭って越前から京へ帰洛した際には、元綱がこの朽木谷越えを先導した。

 天正10年(1582)の本能寺の変後、元綱は豊臣秀吉にも仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、当初、敦賀を領していた大谷吉継の指揮下で西軍についていたが、小早川秀秋の裏切りが起こった後、連鎖的に脇坂安治小川祐忠赤座直保と共に東軍に寝返って大谷軍を破り、9595石の領地を安堵されている。

数少ない朽木陣屋の遺構である井戸と石垣

 江戸時代に入り、寛永9年(1632)の元綱の死後、遺領は3子に分割され、嫡男宣綱が本家分6740石を、次男友綱が2015石を、三男稙綱は1110石を相続した。本家筋である宣綱の系統は旗本として明治まで続き、三男稙綱は将軍家光に仕えて信を得、後に取り立てられて大名となり、その子孫は福知山藩主として維新を迎えている。

 城地の発掘調査では、陣屋跡とされる場所から中世の居館城郭の痕跡が発見され、同じ位置に中世から近世まで拠点があった事が判った。資料館で貰った資料には、義綱の子時経が元弘2年(1332)に初めて陣屋を構えたとあったが、発掘調査では、少なくとも15世紀初頭には存在したことが判明しており、築城時期にそれほどの誤差はないものと思われる。

 ただ、朽木谷には、岩神館という別の居館があるほか、朽木谷城の後背には、前述のように西山城という詰城も構築されており、一貫して朽木城が居城であったわけではないようだ。周囲の情勢を鑑み、その時々で本拠が変わっていたのかもしれない。

朽木陣屋の古図

また、江戸期には、朽木氏が旗本となったために陣屋と称し、城からより政庁色の強い構造へと改修されているが、改修がどの時期に行われたかは不明で、一説には陣屋に改修される前は複数の多聞櫓を備えた城であったとも伝わっている。

 改修された後の陣屋の構造は、前面に石垣と水堀、高土塁を備え、左右は空堀、背面は空堀と高土塁で囲われていたようで、2町四方の敷地があったといい、地元の古老の話では、左側にも石垣が用いられていたという。

 陣屋は、明治維新まで朽木藩朽木氏の政庁として機能したが、明治6年(1873)の廃城令には見えず、それ以前に破却されていたのかもしれない。その後も、平地の少ない朽木で跡地は重宝されたのか、城地では改変が続いたようだ。

 現在の城跡は、陣屋跡の一部が史跡として整備され、入館料無料の郷土資料館やグラウンドがある。遺跡としては、部分的に井戸や土塁が残り、僅かながら石垣なども確認できるが、後世の改変も大きく、全体的な陣屋のイメージを捉えるのは難しい。

 

最終訪問日:2023/10/16

 

 

琵琶湖岸から見て裏街道のような鯖街道が好きな道で、その休憩ポイントとして、朽木には何度も行きました。

深い山間の谷筋の道なのに、曲がりくねらず、スルスルとテンポ良く走れ、朽木から京都まで抜け易い道なんですが、逆に言えば、京から落ち延び易い道でもあり、室町将軍が何度も朽木氏を頼ったのが、解る気がします。