Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城

駿府城

駿府城の前身は、駿河守護を代々務めた今川氏の居館で、詳細な位置は不明ながら駿府城三ノ丸付近にあったと伝わる。 この居館は、今川館とも駿府館とも呼ばれ、今川範政が応永18年(1411)に花倉から念願の駿府入部を果たして築いたものだが、室町時代の守護所…

諏訪原城

武田氏時代に諏訪原城、徳川氏時代に牧野城や牧野原城と呼ばれた城。平野から見ると峻険な坂の上にあるが、頂上部は平坦で郭が広いという平山城で、正確には崖城と言うべきだろう。 築城は天正元年(1573)で、武田勝頼が家臣の馬場信春に命じ、武田信豊に補佐…

下田城

下田城の築城時期は不明だが、延元2年(1337)の古書に本郷氏島城主志水長門守とあり、この本郷は稲生沢川の下流域に現在も残る地名で、氏島城が鵜島城、すなわち下田城のことであるという。このことから城は、南北朝時代には既に在ったようだ。 その後、城の…

小山城 (遠江)

小山城がいつ頃に築かれたのかは定かではないが、伝承によると、文治年間(1185-90)に小山朝光こと結城朝光によって砦が築かれたのが最初という。 ただ、文治年間というと、源平の争乱終結後であり、その末期が奥州藤原氏との戦いがあった程度で、時代背景か…

興国寺城

北条早雲こと、伊勢盛時が本拠とした城。 興国寺城の築城時期は不明だが、早雲が今川家の家督争いを収めた功で興国寺城に入城した長享元年(1487)かその翌年までには築城されていたとされるほか、早雲自身が入部の際に築いたという説もある。ただ、早雲の興国…

蒲原城

蒲原城南郭の城址碑 海岸に沿って走る東海道と富士川の川筋の街道を押さえる、交通の要衝にある城。 蒲原城を築城したのは誰なのか、はっきりとしていないが、一説に土豪の蒲原氏であるとも、駿河守護の今川氏の一族であるともいう。 蒲原氏の出自は、入江氏…

狩野城

狩野城案内板 狩野氏が本拠とした山城。 この狩野城を居城とした狩野氏は、藤原南家流工藤氏の分かれである。 工藤氏の始祖は、木工助であった藤原為憲で、木工助と藤原で工藤を称した。為憲は、駿河や伊豆などの権守を務め、その孫維景や維景の子維職は官職…

勝間田城

勝間田氏が本拠とした城。ただし、創始期からの本拠ではなく、室町時代からの城である。 勝間田氏は、八幡太郎源義家と相良荘司藤原光頼の娘との間にできた庶子家永(家長)を祖とする横地氏から分かれた支族で、家長の次男十郎が勝間田の地名を姓としたことが…

掛川城

掛川城復興天守と太鼓櫓の遠景 文明年間(1469-87)頃に、駿河守護今川義忠が家臣の朝比奈泰煕に命じて築かせたというのが掛川城の初見であるが、この時に築かれたのは北東数100mにある掛川古城であった。掛川古城を築いた泰煕は、そのまま城主となり、子泰能…

江尻城

武田氏の駿河支配の拠点として築かれた城。小芝城ともいう。 江尻城が築かれた背景には、武田信玄の駿河侵攻がある。甲斐の武田氏と駿河の今川氏は、信玄の父信虎の代から誼を通じ、信玄の代には北条氏を含めた三国同盟を形成した。しかし、永禄3年(1560)に…

天方本城

麓の天方本城案内板 天方9ヶ村を支配した天方氏の居城。 天方氏は、首藤山内氏の流れで、天方に住して地名を名乗ったという。 首藤山内氏は、藤の字から解るように藤原氏を称しており、その祖は藤原秀郷とも藤原師尹ともいわれるが、藤原氏は仮冒で実際は守…

天方城 (天方新城)

天方城本郭に建つ城址碑 天方氏が14世紀の末期頃に築いた城も当時は天方城と呼ばれており、区別する場合は、そちらを天方本城、こちらを天方新城と呼ぶ。 天方9ヶ村を支配した天方氏は、15世紀末期の今川氏の遠江への伸張以降、今川家臣として活動していた。…

足柄城

足柄城本丸に建てられた城址碑と富士山 箱根北側の峠である足柄峠にある城。静岡県と神奈川県の県境に跨る城であるが、主郭部は静岡県側に造られている。 足柄峠は、かつては足柄坂と呼ばれ、平安時代には箱根の山塊を越える東海道の主街道だった。そのため…

要害山城 (甲斐)

要害山の麓にある碑 要害城や、麓の積翠寺の名を取って積翠山城とも呼ばれる山城で、甲斐守護武田家の居館躑躅ヶ崎館の詰城。 躑躅ヶ崎館は、武田家の館として非常に有名だが、それより前の守護所は石和にあった。 叔父信恵を破って武田氏の惣領となり、甲斐…

谷村城

小学校の一角に建つ谷村城址碑 一般には、甲斐源氏武田氏の重臣小山田氏が居城とした城とされ、居館形式であったことから、谷村館とも呼ばれる。ただし、小山田氏時代の谷村城は別の場所にあるとし、この城は豊臣政権時代の築城とする説もあるようだ。 小山…

能見城

能見城は、ノウミではなくノウケンと読む。 能見城築城には3つの説があり、そのひとつが穴山氏築城説である。 穴山氏は、甲斐源氏武田氏の5代信武の五男義武が、能見城周辺の逸見郷穴山村を領して地名を称し、穴山氏の祖となったという。しかし、これには異…

躑躅ヶ崎館

戦国時代の武田氏が本拠とした居館。武田氏館ともいう。 武田氏は、清和源氏の本流河内源氏の流れである。永承6年(1051)から始まる前九年の役で活躍した源頼義の三男に新羅三郎義光がおり、その子義清が常陸国那珂郡武田郷を領して武田冠者と呼ばれたことに…

須沢城

須沢城は、武田信玄が治水のために流路を現在の川筋に変えたとの伝承が残る御勅使川の北側にある。この御勅使川は甲斐でも有数の暴れ川で、氾濫による流路の変更が幾度もあり、現流路を含めて5本の流路が確認されているという。また、暴れ川が運ぶ砂礫は扇状…

新府城

新府城本丸に祀られた武田勝頼の廟祠と家臣の霊柱 正式には、新府中韮崎城という。 甲斐を治めた武田信玄の死後、実質的に跡を継いだ子勝頼は、高名な父の名声を打ち消すように、天正2年(1574)に信玄が落とせなかった高天神城を攻略し、武名を轟かせた。しか…

下山城

河内地方を統治した穴山氏の居城。 この下山城の場所には、かつては下山氏の居館があったという。下山氏は、甲斐源氏である加賀美遠光の孫光重を祖とし、光重が建仁年間(1201-04)に下山に入部して地名を称したのに始まるといい、居館も入部時に築かれたもの…

小山城 (甲斐)

小山城の築城時期は不明であるが、宝徳2年(1450)には穴山伊豆守が居城していた。 この伊豆守は、上杉禅秀の乱に加担して討伐された甲斐守護武田信満の弟で有力庶家である穴山氏を継いでいた、満春の子といわれているが、信満の嫡子で従兄弟にあたる信重によ…

甲府城

武田信玄の居城として知られる躑躅ヶ崎館の南、甲府盆地北部の一条小山に築かれた城で、山の名から一条小山城とも呼ばれたほか、甲斐府中城、赤甲城、舞鶴城という別名がある。 城のある一条小山には、古くは武田氏の初代である武田信義の嫡男一条忠頼が居館…

勝山城 (郡内勝山城)

勝山城本丸に建立されている東照宮と僅かに見える本丸の碑 勝山城というのは各地にあるため、郡内勝山城や都留勝山城とも呼ばれる。 鎌倉時代始め頃からこの郡内地方を統治したのは、武蔵国を本貫とする平良文流の坂東八平氏秩父党の小山田氏であった。 小山…

岩殿山城

武田家臣小山田氏の詰城。岩殿城ともいう。 岩殿山の歴史は、平安時代の9世紀末頃に始まり、この巨大な岩山に天台宗の岩殿山円通寺が開かれ、やがて門前町を形成するほど栄えた。天台宗や真言宗は中国の山岳仏教の系譜を継いでいるため、古来の山岳信仰と習…

南熊井城

南熊井城の表示と解説 田川の河岸段丘に築かれた崖城。 南熊井城の事跡は、僅かしか見られない。城の位置関係から見て、東の北熊井城の支城として運用されたことは想像に難くない城だが、「片丘村誌」には、嘉吉2年(1442)に大和織部正の熊野井館として登場し…

松本城

言わずと知れた国宝5城の内のひとつ。 深志郷を領していた坂西氏の、1町四方程度の居館の上に、永正元年(1504)に小笠原氏の一族、島立貞永が築城した城で、小笠原氏の本拠である林野城の支城として築かれ、深志城と呼ばれていた。以後、大永年間(1521-28)に…

福与城

福与城解説板 藤沢氏が居城とした城。 福与城主だった藤沢氏の出自には、2つの説がある。ひとつは諏訪神氏流とする説で、諏訪大社上社大祝の諏訪氏の庶流千野光親の子親貞が、高遠北方の藤沢を領して地名を称したことに始まるという。親貞の子清親は、鎌倉幕…

平賀城

平賀城遠景 平賀の地は、新羅三郎義光の四男盛義が、平賀郷を本拠として平賀冠者と呼ばれたため、平賀氏の本貫地となった。 平賀城は、築城年代は不明ながら、その盛義の子義信によって築かれたという伝承を持つ。 義信は、前述のように河内源氏の嫡流に近い…

妻籠城

妻籠城登山口と城址碑 妻籠城の築城者や築城の時期ははっきり判っていないが、伝承では、木曾義仲が上洛する際に築いたとも、足利尊氏に仕えた木曾家村が築いたとも伝えられている。 城は、室町時代にはすでにあったとされていることから、実際のところは、…

龍岡城

幕末に築かれた西洋式の星形要塞は、函館の五稜郭が有名であるが、日本にはもうひとつの五稜郭があり、それがこの龍岡城である。別名として、龍岡五稜郭とも呼ぶ。 龍岡城が築かれたのは、その形状から解るように、幕末である。 当時の田野口一帯の領主は、…