お城
四国八十八箇所霊場の第八十五番札所となっている八栗寺の、すぐ南西側にあった山城。 庵治や牟礼を領した中村恒頼の居城で、八栗山の南麓にある田井城が天正8年(1578)に火災で焼失したため、より峻険な八栗山に築城したのが八栗城である。 ちなみに、当時の…
大手桝形から天守までを望める丸亀城前景 現存天守がある12城のひとつ。 丸亀城の前身は、宇多津城ともいう聖通寺城を本拠とした奈良元安が支城として築いたもので、砦のような小城だった。築城時期は不明だが、宇多津城が応仁年間(1467-69)の築城とされてお…
寒川氏が居城とした山城で、そのあまりの要害さから、昼寝しても落ちない城という意味で、昼寝城と呼ばれた。 東讃に勢力を張った寒川氏は、景行天皇の皇子である神櫛王の子孫という。神櫛王の子孫がやがて讃岐国造となり、さらにその末裔の千継なる人物が、…
引田城西櫓の石垣 百済を援護して出兵した白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に敗れた朝廷は、連合軍が日本にも侵攻してくるのを恐れ、西日本各地に城砦を築いた。高松の屋島にも天智天皇6年(667)に城が築かれたが、引田城に伝わる伝承では、この時に阿倍比羅…
中讃の豪族羽床氏の居城。 羽床氏は、藤原氏流といわれ、平清盛の義母池禅尼の従兄弟にあたる藤原家成が、保安元年(1120)に讃岐国司として下向し、綾大領貞宣の娘との間に、章隆を儲けた事に始まる。 章隆は、祖父の地盤を継いで綾大領となり、藤太夫を称し…
南北朝時代以来、中讃の豪族長尾氏が居城とした山城。 南北朝時代の四国では、足利尊氏が建武の新政に叛旗を翻して敗れ、九州へと落ちた際、その一族であった細川一門が四国へと派遣されて現地の勢力を足利方へとまとめたことから、四国、特に阿波、讃岐、土…
虎丸の名の由来は、中腹に虎が伏せたような岩があったからとも、城を築いた年が寅年であったからともいわれ、落ち延びてきた護良親王を迎えるため、佐伯秀国が元弘2年(1332)に築城したという。ただ、護良親王がこの地に来たというのは、伝承に過ぎないようだ…
高松城は、生駒親正によって天正16年(1588)に築城された城で、海水を水門から堀に入れていることから、日本三大水城のひとつに数えられている。また、柿本人麻呂が讃岐の枕詞として「玉藻よし」と詠んだことから、周辺が玉藻の浦と呼ばれており、別名玉藻城…
中村氏宗が居城とした城。 中村氏は、美濃源氏土岐氏の末流といい、天文年間(1532-55)に美濃から入部し、一説には、この時に中村城を築いたともいわれる。だが、「播州諸家姓氏録」には、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で討死した江井通友なる武将が、応永15年(14…
十河城址碑と解説板 讃岐の豪族で、後に三好一族となった十河氏の居城。 十河氏は、景行天皇の王子神櫛王の末裔という伝承を持つ、古くからの地生えの豪族である。 神櫛王の3世の孫である須賣保禮命が、讃岐国造として下向し、子孫は讃岐公を賜って讃岐国内…
羽床七人衆のひとりに数えられた造田氏の居城。 造田氏の出自は不明で、在地豪族が成長したものか、中央もしくは讃岐の役職を得た名族の支流が入部したものかは判らないが、造田の地名があることから、かなり古くからこの地を治め、やがて地名を名字にしたと…
県道にあった栗隈城への案内表示 室町幕府2代将軍義詮の治世で、幕府執事に就いて権勢を極めた細川清氏は、やがて政争に敗れて南朝に降り、最終的には讃岐の白峰城で、従兄弟の細川頼之に敗れて討死するのだが、この白峰合戦で功を挙げた三野郡詫間郷筥御崎…
聖通寺城は、聖通寺山城や、宇多津にあるので宇多津城とも呼ばれるが、城址碑には平山城とあった。 城は、管領細川勝元に仕えて細川四天王のひとりに数えられた奈良元安により、応仁年間(1467-69)に築かれたとされる。 この奈良氏は、もともとは関東の御家人…
天霧城は、室町幕府の管領であった細川氏の重臣で、讃岐守護代を務めた香川氏の居城、詰城であった。 この香川氏の出自には、不明なところが多い。 大まかには、永保3年(1083)から始まる後三年の役に活躍した桓武平氏鎌倉景政の末裔というのが通説で、その孫…
蜂須賀氏治世下の阿波九城のひとつ。虎伏山にあることから、虎伏城とも呼ぶ。 鎌倉時代中期に、藤原氏系の脇氏がこの地に入り、後に城を築いて代々居城したとされ、文明年間(1469-87)頃には、脇権守仲房が居したという。だが、その城は掻揚げの土居構の城だ…
鳴門市撫養町にある山城で、現地では撫養城と表記されているが、徳島県のパンフレットには、市指定史跡として岡崎城とあり、南西麓の地名から林崎城とも呼ばれる。 築城の時期は不明だが、将軍足利義稙が撫養で没したというのが史料にあることから、大永年間…
牟岐城南麓の八幡社から城の遠景 牟岐城は、阿波南東部の海沿いに築かれた城のひとつで、他の海岸沿いの諸城と船舶によるネットワークを成していたと思われる。 牟岐城の事績として伝えられているものは少なく、元亀年間(1570-73)に牟岐大膳允によって築かれ…
日和佐城は、長宗我部元親の阿波侵入に対する防塁として、日和佐肥前守が築いたとされるが、その規模は小さかったようだ。元亀年間(1570-73)、もしくは天正年間(1573-93.1)初期に築城され、史料には3段の郭があったと記されている。 同じ頃、連なるように存…
西園寺家の荘園であった田井荘の荘司である、近藤京帝が館を構えたことに始まるという。 ただ、築城時期は、白地城の説明板が建武2年(1335)、田尾城の説明板では久安6年(1150)となっており、また、一説に鎌倉時代前期とするものもあって、非常に開きがある。…
江戸時代に阿波と淡路の2ヶ国を領した、蜂須賀氏の居城。 徳島の建つ山には、南北朝時代の至徳2年(1385)に、管領細川頼之の築いた城があり、風光明媚な中国の渭水から名を取って渭津城や渭山城と呼ばれていた。また麓には、河川を防御の要とした寺島城があっ…
田尾城南城館 南北朝時代初期の阿波奥部では、南朝方の小笠原義盛が大西城を本拠としていたが、その子か従兄弟といわれる頼清が、讃岐の脇屋義助と呼応して建武4年(1337)に築いたのが、田尾城の最初という。 この後、30年ほどは、小笠原氏が三好郡を中心とし…
現地表記や国指定の史跡名では勝瑞城館であるが、一般的には細川時代から三好時代の居館として勝瑞館の名が知られており、そちらの名とした。 勝瑞館の築城時期は、諸説あってはっきりしないが、少なくとも14世紀後半には存在が確認できる。伝えられるところ…
勝瑞城本丸北側の水堀 勝瑞城の築城時期は、以前は南の勝瑞館の築城と同じ頃と考えられていたが、発掘調査の結果、戦国時代末期の中富川の合戦直前に構築された可能性が高くなっているという。 勝瑞城の城主居館に当たる勝瑞館は、鎌倉時代の小笠原氏時代か…
川島城の築城は、戦国時代も末期に差し掛かる元亀3年(1572)のことで、三好長治と対立した三好家臣篠原長房の討伐の際に功を挙げた、川島惟忠によるという。 川島惟忠による築城というと、惟忠の名字である川島を築城時に城名にしたように感じられるが、討伐…
海部城本丸 鞆浦にあることから、別名鞆城とも呼ばれ、海部周辺に勢力を持っていた海部友光によって永禄年間(1558-70)の末期、もしくは元亀年間(1570-73)に築城されたが、築城以前にも鞆城や島城と呼ばれた城砦があったという。 海部氏の出自は不明だが、伝…
池田市街の中でも、北の川沿いは20mから30mほどの高地となっており、大西の丘と呼ばれている。その高さと背後の川を防御力の要として、大西城は存在していた。 大西城の築城は承久3年(1221)で、同年の承久の乱で功を挙げた小笠原長清が阿波守護となって入部…
阿波の国人である新開氏の居城。富岡城や浮亀城ともいう。 牛岐の地は、古くは牛牧とも書き、古代に私農場があったといわれ、戦国期には両方の字が併用されたようだ。また、一説には、前述の浮亀(ウキキ)から転じたともいう。 牛岐城の築城者には、新開氏と…
豊臣秀次の養父として有名な、三好笑岩こと康長の居城。 岩倉城の歴史は古く、鎌倉時代の阿波守護小笠原長房が、文永4年(1267)に平盛隆を討った功で三好郡と美馬郡を得た後、本拠として築いたのが最初という。ただ、発掘調査では、12世紀後半の遺物が出土し…
阿波にどのような足掛かりを持っていたかは不明だが、和泉半国守護であった上和泉守護家の細川常有が、宝徳2年(1450)かその翌年に築城した城で、築城当初は川田城と呼ばれていたという。 以後は、和泉屋形とも呼ばれ、上和泉守護細川家が領有していたが、当…
別名を宍喰南城といい、宍喰の地名が入っているため、地元以外にはこちらの方が分かりやすいと思われる。ただ、史料に登場する宍喰の城は、この愛宕城を指すのか、それとも市街北西の鈴ヶ峰にあったという城砦を指すのかは、よく分かっていないようだ。 愛宕…