Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

虎丸城

 虎丸の名の由来は、中腹に虎が伏せたような岩があったからとも、城を築いた年が寅年であったからともいわれ、落ち延びてきた護良親王を迎えるため、佐伯秀国が元弘2年(1332)に築城したという。ただ、護良親王がこの地に来たというのは、伝承に過ぎないようだ。また、この年は壬申で、寅年でもない。

 その後、戦国時代に寒川元隣が居城していたことがはっきりしており、大内郡と寒川郡、それに小豆島を領して東讃岐に勢力を張っていた寒川氏の、元隣以前からの重要な拠点であったと思われる。

 寒川氏は、讃岐国造の末裔との伝承がある在地豪族で、室町時代は讃岐守護である細川氏に従っていたが、細川政元の後継者争いが勃発して細川家中が混乱すると、当主であった元家は、前将軍足利義尹(義稙)を擁して永正5年(1508)に上洛した大内義興に従っている。

祠が祀られている虎丸城頂上部は櫓台か

 その後、細川家中で勢力を拡大した三好氏が讃岐に影響力を及ぼし始め、三好氏と結んだ植田氏や十河氏と対立し、香西氏と共にこれらと戦ったが、後に和睦した。

 だが、東讃岐の守護代であった安富氏とは対立が続き、天文9年(1540)に大きな合戦があったほか、元亀元年(1570)か同3年(1572)には、安富氏が三好長治を通じて元隣に虎丸城を明け渡させ、当主であった盛定がこの虎丸城へ入城している。

 時系列が前後するが、このような讃岐に対する影響力を持っていた三好氏も、最盛期を築いた長慶が永禄7年(1564)に没した後、松永久秀三好三人衆の対立や、同11年(1568)の信長の畿内進出などがあり、勢力を大きく後退させていた。その上、長治は忠臣篠原長房を討ったことで国人の支持を失ってしまい、やがて長宗我部元親の援助を受けた細川真之と戦って敗死するのだが、この長房が滅ぼされた時、盛定は長房の娘婿という立場から長治の攻撃を恐れ、虎丸城を出て播磨へ渡り、織田氏に属したという。

虎丸城本丸と思われる削平地と頂上部

 その後、長慶の時代に三好氏から十河氏に入嗣していた一存の子で、長治の弟でもある存保が、実質的な三好氏の惣領となって織田氏の四国討伐の方針に呼応し、四国統一を目指す元親と戦うのだが、運悪く天正10年(1582)6月に信長が横死したため、援軍が無いまま8月の中富川の合戦で敗北して阿波を失い、存保は讃岐に逃れてこの虎丸城に籠った。

 そして、再び侵攻してきた長宗我部軍の包囲の中、存保は信長の後継者たらんとする秀吉に援軍を要請するも、秀吉は柴田勝家との争いで余力がなく、とりあえず淡路の仙石秀久を引田に向かわせたが、秀久は元親に敗れて追い落とされ、孤立した存保も大坂に脱出して天正12年(1584)に城は落城したという。ただし、一説には、虎丸城で四国征伐まで持ち堪えていたという説もある。

 ちなみに、前城主である盛定も存保と協力し、本来の居城である雨瀧城に籠ったが、こちらも盛定が秀久のもとへ逃れて落城した。

虎丸城本丸直下の竪堀群を横から

 城を得た長宗我部軍は、城に改修を施しているが、天正13年(1585)の四国征伐には見えず、兵力集中のために防衛拠点としては放棄されていたようだ。そして、四国征伐後の讃岐の豪族整理と城割に伴い、廃城となった。

 城の構造は、櫓台と思われる頂上部を持つ方形の本丸を中心に、それぞれの頂点からほぼ東西南北の4方向に延びる尾根筋を城郭化しており、東西南の3方向には段郭を、北へは三角点のある小ピークに向かって細長い郭が構築されている。それらの中では、西に向かう尾根筋には比較的大きな削平地が構築されていた。ただ、本丸は突出して標高が高く、4つの峰筋とはやや隔絶している。

 この本丸の北側斜面には、幾筋かの不完全な畝状竪堀があるが、これは長宗我部氏の城郭に多用されていることから、長宗我部氏時代の改修によるものとされ、この改修が、長宗我部軍による攻略の証左として、存保が四国征伐まで虎丸城に在ったという説を否定するという。ただ、竪堀が長宗我部氏時代の構築という説には、諸説がある。

虎丸城の北の出丸的な小郭となっている三角点のある小ピーク

 現地表示で標高417mの虎丸山には、途中まで通じた車道が無く、城への登山道は、麓のとらまる公園から見て、近くを通る県道129号線と与田川を挟んだ向かいの集落の奥に入口があり、新宮石風呂跡からすぐの弘海寺跡に駐車場とトイレが確保されている。ほぼ麓と言えるこの場所から登って行くことになるのだが、道のりの長さとしては、数あるお城の中でも上位に入るだろうか。

 ただ、毎月登山会などの活動が盛んで、登山道は非常に整備されており、体力は要るものの登りやすい。とは言え、花崗岩質の山であることから、真砂土化した土が滑る上、非常に峻険な部分が続き、さらには雨天時の雨水の流路になっているであろう部分が登山道となっている部分も多く、かなりしっかりとした装備が必要な城である。

 

最終訪問日:2024/6/3

 

 

手元のGPSロガーの数値では、頂上まで約380mの高さを登り、水平移動距離は約2.2km、時間は約53分の登山道でした。

なかなかの道ですね。

小休憩を2回挟まないと無理でした笑

覚悟して登って下さい!