日和佐城は、長宗我部元親の阿波侵入に対する防塁として、日和佐肥前守が築いたとされるが、その規模は小さかったようだ。元亀年間(1570-73)、もしくは天正年間(1573-93.1)初期に築城され、史料には3段の郭があったと記されている。
同じ頃、連なるように存在する牟岐城や海部城も築かれており、南阿波の海沿いの各領主に対し、防備強化の築城指令が三好氏より下っていたのだろう。三好氏側で、土佐から海沿いに侵攻して来るとの情報を掴んでいたと思われ、切迫した情勢が窺える。
日和佐の土豪である日和佐氏は、このように準備を整え、三好方として長宗我部軍と対峙したが、天正5年(1577)11月に香宗我部親秦に降り、後には元親から領地を安堵された。

だが、元親が四国をほぼ統一した天正13年(1585)には、秀吉による四国征伐が始まり、結局、長宗我部氏は土佐一国の主に戻されてしまう。そして、長宗我部氏に代わって阿波に入封した蜂須賀氏は、阿波国内に9つの支城を整備し、日和佐城は廃城となった。
日和佐の城主となっていた肥前守の弟権正は、後に元親に請われて土佐へと移り住み、名乗りを浜に変えたが、徳島藩主であった蜂須賀家政が帰国を望んだため、再び日和佐に帰り、50石の士分に取り立てられたという。
城は、日和佐川と奥潟川が合流して海へ注ぐ場所にある、標高65mの山に築かれていた。日和佐の小さな市街地に来ると、海側に大きな白亜の模擬天守が建っているので分かりやすい。

この天守は、日和佐勤労者野外活動施設として建てられたもので、むろん歴史上の日和佐城とは全く関係ないが、恐らくこの建物のある場所が本丸と思われる。また、この天守から少し下がって駐車場となっている平坦地があり、その先にテニスコートがあるが、もしかしたらここが二ノ丸と三ノ丸だったのだろうか。
ただ、もともと規模の小さい城で、廃城時期も早く、模擬天守造営で城跡に人の手が入っているため、どこまでが城域か判らず、残念ながら遺構と思われるものも見当たらなかった。山頂から見える港の姿は、古代や中世によく見られた河口港の姿で、それだけが往時を偲ばせるのみである。
最終訪問日:2004/9/9
立派な模擬の天守が出迎えてくれるお城ですが、耐震性の関係で、現在は閉鎖されているとのこと。
昭和の頃に模擬天守ブームがあり、老朽化や耐震性の問題で、入る事ができなくなっているお城が増えてますね。