阿波の国人である新開氏の居城。富岡城や浮亀城ともいう。
牛岐の地は、古くは牛牧とも書き、古代に私農場があったといわれ、戦国期には両方の字が併用されたようだ。また、一説には、前述の浮亀(ウキキ)から転じたともいう。
牛岐城の築城者には、新開氏と安宅頼藤の2説がある。
安宅氏を隆盛させた頼藤は、室町幕府2代将軍足利義詮から信頼され、紀伊から淡路、阿波にかけての海域で大水軍を築き、観応2年(1351)に阿波国竹原荘本郷を領して牛牧荘を預かったという。ただ、当時、多数の小島があった那賀川と桑野川の河口域に築城して本拠にしたという説は水軍らしく説得力があるが、領したのは史実としても、築城したかは定かでない。
もう一方の説で築城者とされる新開氏は、渡来人の流れである秦河勝が祖といい、その子孫が東国各地を開墾して開発領主へと成長し、忠氏の時に武蔵国新戒に居館を構えて新開を称したことに始まる。この新戒という地名自体に、新たに開いたという意味があり、渡来人が入植開発して領主になったという物語は解りやすいが、一方で、甲斐源氏という説もあるようだ。
新開氏の祖である忠氏は、頼朝の挙兵に早くから従い、頼朝の最初の挫折となった石橋山の合戦にも名が見えるように、鎌倉幕府草創の功臣であった。また、忠氏は、同じく草創の功臣である土肥実平の次男実重を養子に迎えており、鎌倉幕府成立後の土肥氏の躍進と共に新開氏も栄達したと考えられる。しかし、土肥一族が建暦3年(1213)の和田合戦で衰退したことから、これ以後は数多の御家人のひとりという立場に甘んじたようだ。
新開氏が関東から阿波へ移った時期は、よく判っていない。一説に鎌倉末期頃とされるが、新田義貞の倒幕軍を分倍河原で迎え討った北条泰家軍中に見える、新開左衛門入道をどう捉えるかによるのだろう。阿波に分派した後の本宗の人物と考えれば無関係であるし、細川頼之の配下として活躍した新開真行の父か祖父と考えると、この頃にはまだ阿波に下っていなかったことになる。
いずれにせよ、南北朝時代の真行の時には、四国での活躍が知られ、その頃は阿波国富吉荘を領していたようだ。
新開氏がいつ牛牧荘に入ったかというと、安宅氏の衰退と関係があるという。
安宅氏は、当初の北朝方から南朝方へ転じたが、頼之が細川清氏を破った康安2年(1362)の讃岐合戦後、南朝方の決定的後退によって安宅氏も阿波撤退を余儀なくされ、代わって新開氏が入部したと考えられている。その年代は、頼之が四国で逼塞していた至徳年間(1384-87)というのが有力で、新開氏築城説では、この時に城が築かれたという。
これ以降の新開氏は、代々遠江守を名乗って細川氏の有力部将として活躍し、同じく細川家臣の香川氏から養子に入ったという之実は、土佐守護代を務め、寛正6年(1465)に河野道春との戦いで討死したことが見える。そして、この後も子孫は細川氏に仕え、細川京兆家や阿波細川家の軍に参陣しており、細川家臣団の一翼を担っていた。
だが、実綱の代になると、阿波細川家の家臣である三好氏が興隆し、長慶の登場によって全盛期を迎え、阿波でも、長慶の弟義賢が、阿波守護細川持隆を天文21年(1552)かその翌年に謀殺して主家を傀儡化してしまう。だが、鑓場の義戦のような少数の叛乱はあったものの、三好氏への権力移動に伴う大きな混乱は無く、実綱もそのまま三好氏に仕えたようだ。
長慶が没した後、三好家中の内訌や、将軍義昭を奉じた永禄11年(1568)の信長上洛があり、三好氏が弱体化していく中、四国では長宗我部元親が土佐を統一し、伊予と阿波へ侵攻を目論むようになる。
長宗我部軍の阿波侵攻ルートは、吉野川沿いと海岸沿いの2つがあり、海岸沿いルートでは、天正3年(1575)に海部城が攻略され、元親は弟香宗我部親泰を置いた。そして、同5年(1577)には長宗我部軍がさらに北上を始め、これによって南阿波の諸豪族は長宗我部氏に降伏してしまい、牛岐城からすぐ南の桑野の東条氏も長宗我部家に降ったため、実綱は東条氏と争うようになる。
この実綱と東条氏の戦いは、実綱優勢の内に進んだが、東条氏の劣勢は、当然の事ながらこれを支援する長宗我部軍の出兵を招き、天正7年(1579)に両軍は初めて戦火を交えた。しかし、実綱はこの戦いに敗れ、翌年には長宗我部軍に降伏している。
実綱はその後、親泰配下として阿波攻略に従ったが、天正10年(1582)の元親による阿波統一後、三好旧臣の排除を図る元親により、勝浦の丈六寺で謀殺されたとも自刃させられたといもいい、結局、新開氏は滅んだ。
実綱の粛清後、元親は親泰を牛岐城に入れ、阿波南方の統治と対中央の外交を任せたが、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐後に元親が土佐一国に戻されると、阿波のほとんどは蜂須賀家政に与えられた。
家政は、阿波国内に阿波九城と呼ばれる支城網を整備するが、親泰の去った牛岐城にも細山政慶を入れ、政慶は牛岐から富岡城へと名を改めている。政慶は後に名字を賀島と改め、子孫は徳島藩の家老職を世襲したが、牛岐城は自体は、元和元年(1615)の一国一城令を経て寛永15年(1638)の古城破却の命令によって廃城になった。
ちなみに、徳島藩で元和の一国一城令が出てから支城の廃城までに長く掛かっているのは、各地に封じられた重臣の力が強かったためという。
城の構造は、ひょうたん型の丘陵を城地としており、牛岐城跡館のある丘陵を本丸、北の新開神社のある丘陵を二ノ丸として、桑野川を天然の外堀として活用し、丘陵の周囲にも堀を廻らしていた。別名の浮亀の名も、川霧に浮かぶ丘陵が、亀の首と甲羅に見えたからなのだが、ひょうたんのくびれ部分が大正2年(1913)の道路工事で開削されてしまい、現在は2つの小山に分かれてしまっている。
城跡は、今は公園として綺麗に整備されており、遺構としては、本丸の牛岐城跡館に出土した野面積の石垣が展示されているほか、切岸であったであろう丘陵の崖が、城であった名残を残していた。ちなみに、城跡展示館は、通常は施錠されているため、石垣を見学する際には、公園の管理事務所に伝えて開けてもらう必要がある。
最終訪問日:2019/11/10
最初に訪れた時は、南から天気が崩れることを知りながら間に合うことを祈って朝一に阿南へと向かったんですが、願いも空しく途中で雨が降り出しました。
それでも、きちんと城跡を散策できればまだ良かったんですが、濡れながら城に着くと、城跡は公園化工事の真っ最中で、丘陵部はまさかの立入禁止。
不運の極みでしたね笑
11年振りのリベンジ訪問で、無事に石垣も確認できました。