Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

青地城

青地城跡に建つ志津小学校と神明宮

 青地氏の出自は、在地豪族であった小槻山公の子孫である小槻氏の流れといわれ、青地に住して地名を名乗ったという。

 やがて、鎌倉時代には、近江源氏佐々木氏が近江国の支配を強めて行く中で、要地である青地一帯の志津庄を掌握する必要が生じ、近江国初代守護職佐々木定綱の五男である馬渕広定の四男基綱が、青地定兼、もしくは同右馬助に入嗣し、源姓青地氏の祖となった。基綱の子氏基は、小槻大社に神櫃を寄進したことがその銘文から知られ、その弟忠綱はこの城を築城したとされることから、氏基から忠綱への兄弟相続で基盤が引き継がれ、忠綱の子冬綱の時には近江守護代となり、かなりの勢力を持っていたという。

 室町時代の青地氏は、佐々木六角氏の下で栗太郡奉行を務め、有力家臣として南北朝時代や戦国時代を主君と共に生きぬいた。だが、六角氏は室町中期頃より家督争いが頻発し、次第に求心力を失ってしまう。その後、高頼の代に六角氏は勢力を回復するのだが、その過程で権力を得たのは、青地氏と同じ佐々木六角氏の一族である伊庭氏であった。一門家臣で守護代の家柄という同じような条件であったはずの青地氏の動向は、伊庭氏に比べ目立たず、抜きん出る存在にまではなれなかったようだ。

青地城説明板

 しかし、戦国時代の宿命か、家臣が台頭すると得てして大名との対立が誘発されがちだが、六角家でも例に漏れず、当主高頼と宿老伊庭貞隆の間で確執が起き、やがて文亀2年(1502)に第一次伊庭の乱が勃発する。この戦いは、緒戦では高頼が勝利したものの、翌年には管領細川政元の支援で貞隆が逆襲し、高頼は蒲生氏の音羽城に退くのだが、この過程で青地城も落城しており、青地氏は高頼に従っていたようだ。その後、この戦いは和議が成立し、両者の関係も表面上は元に戻ったため、青地城も返還されたものと思われる。

 この直後の永正4年(1507)には、永正の錯乱という内訌の発端となる細川政元暗殺事件が起こるが、青地氏は政元の養子澄元を京から青地城へ迎えており、六角重臣として中央にも知られる存在ではあったらしい。その後も、細川高国の援軍として京に赴いたり、美濃への援軍に出陣するなど、六角家の軍事力の中核として活動していることが史料に見える。

 戦国時代中期の当主長綱には子がなく、蒲生定秀の子茂綱を養嗣子に迎え、茂綱は始めは六角氏、永禄11年(1568)の信長の上洛戦以降は信長に属して蒲生氏と共に転戦した。しかし、元亀元年(1570)の志賀の陣の緒戦である宇佐山城攻防に際し、援軍に赴いて奮戦したものの、討死してしまい、その跡は元珍が継いだ。

志津小学校裏手にある巨大な堀切

 元珍は、引き続き信長に仕え、佐久間信盛に従って本願寺攻めなどに参陣し、天正10年(1582)の本能寺の変後は織田信孝に仕えているのだが、結果的には、この主選びが道を誤ることとなった。信孝は、秀吉を憎んで柴田勝家と結んだが、翌同11年(1583)に勝家と共に敗れ去り、その結果、元珍も信孝旧臣として冷遇されてしまうのである。

 後に元珍は、秀吉に仕えて大封を得た蒲生氏郷を頼ることとなるのだが、信長に転仕した六角旧臣という似た来歴の従兄弟ながら、ひとつの選択で大きく道が分かれてしまったのは、乱世の身の処し方の難しさと言えるだろうか。

 このように、元珍が信長に仕えた一方で、別系の青地氏として、青地城には青地高直なる武将がおり、天正元年(1573)から翌年にかけての六角氏の滅亡に伴い、青地城を出て城は廃城になったという。系図では、高直は長綱の甥にあたり、蒲生氏と行動を共にする元珍とは一線を画し、六角氏の一門譜代として六角氏の最後の反攻に加担したものと思われる。ただ、青地城で実際に戦闘があったのかなどの詳細は不明で、一門が居ながら外から養子を迎えたことに対する反発があったのは想像に難くないものの、実際にどういう理由で当主である元珍と行動を異にしたのかはよく分からない。

 青地城は、前述のように鎌倉時代初期頃に忠綱が築いたとされるが、近江栗太郡志には応仁元年(1467)の応仁の乱以降の築城とある。想像するに、鎌倉時代に居館形式の城が造られ、後に戦乱に対応して防御力を強化する大改修があったのかもしれない。

神明宮境内にある桝形と土塁のような地形

 その城跡は、現在は志津小学校と小槻神社の敷地となっており、小学校南側の高台付近が最高所で本丸だったと思われる。恐らくこの本丸を中心とし、小学校の建つ次段と氏神を祀る小槻神社の主に3つの部分で構成される城だったのだろう。小学校の北側に大きな池があるが、これは城池と呼ばれるかつての堀で、体育館がある場所も池を埋め立てたものらしい。

 城の遺構としては、小学校裏門付近に土塁跡があるほか、その南には両側の高さが10m程度と7m程度というかなり大きな堀切が確認でき、この切岸を登ると小郭と土塁があった。小学校北側の神明宮と小学校の間にも堀切と思われる窪みや土塁跡と思しき人工的な小さな土盛りがあり、ここも付随する小郭だったのだろう。城全体では大きく3つの部分で構成されてはいるが、大きな郭のみの単純な構造ではなく、小郭を要部に複数用いていたと思われる。この他には、小学校南側の道沿いに本丸と小槻神社の郭を画した水堀跡と思われる小川があり、小槻神社近辺にも土塁が見られた。

 国道1号線草津川の交差点を名神高速方向に行けば、高速と交差する直前に池と小学校が見えてくる。これが青地城跡だ。城の説明板としては、池の畔に小さなものがあるだけで、城の全容もこれだけでは判らないが、遺構が比較的よく残っているので、散策で城の姿を大まかに想像することができる。ただ、後で調べると城址碑もあったらしいのだが、残念ながらこれは散策では発見できなかった。また訪れる機会が有れば、城址碑目指して切岸を直登し、是非とも碑を確認したいところである。

 

最終訪問日:2012/5/12

 

 

城跡にデンと小学校が建っていますが、意外と遺構は残っていましたね。

池と小学校の周りをぐるっと1周できるんですが、これが本当にちょうど良い散策路でした。